「観音堂の鳩を見舞にいったと言へば笑われるであらう。しかしどうしたものか浅草の火事で一番に鳩と十二階が氣になった。いってみると鳩も、銀杏の木に巣くってゐる鶏も無事でゐた。しかしあの騒ぎで、餌はないしへとへとに労れてよろよろしてゐたそうだ。飢えた避難者の為に、どれだけ殺されたかわからない」(9月23日付)
★先の『婦人世界』大正12年10月号で「こん度の震災で、ほんとうに、世界思想の推移をはっきりと見たやうに思ふ。我等は何を成すべきかを、私どもは。ことに新しく考えねばならない」と9月19日に「新方丈記」に綴った。それは今までの大正ロマンチシズムの終焉を意味していた。そして自分自身の画業を問い直すことだった。
★9月26日(水)付『東京災難画信』で「廃園」を写生。「夏の宵は多恨の若者が青いペンチで銀笛を鳴らしてゐる。そのかみの日比谷公園を、今は見るよしもない。かしこのベンチ、ここの木の根には、歩み疲れ思ひ労れた無宿の旅人が、知るも知らぬも黙々として坐ってゐる。地震が来やうと、もうびくともしないといふ格好である」
★30日(日)付では「小夜呉歌」で泪する女性を描いている。「『佐々木さん夜警の時間ですよ』さう言って自警団の士官級が、夜夜中當番の者を起こして歩く。『はい只今』…昼の仕事で労れてゐても時間まではまじまじと起きてゐるのだ。男はレインコートを引っかけて棒切れを持って出てゆく。『おゝ寒い』戸外は長安一片の月夜だ」
★キリスト教世界には「バビロンの捕囚」があった。ユダヤ人が強制的に移住させられた。2回目はネブカドネザルの治世下で、ユダヤ王国の住民がバビロンに連行された。捕虜のうち、ある者はアッシリアの宮廷に仕え、他の者は工芸や商業に従事した。文学の方面に多くの実を結んだときだった。しかし王は高慢な冒涜者の典型である。
★『ヨハネの黙示録18:2-24』ではローマは「大バビロン」と呼ばれ、その偶像崇拝とキリスト迫害のために、滅亡させられると定められている。バビロンは神とその民に敵対するすべての勢力の象徴である。バビロンの崩壊は虐げられた民のために神が復讐として与える罰として預言者によって予告されてきた。それは天罰なのか。
★いよいよ『東京災難画信』も最後の記事になる。10月4日(木)付は「バビロンの昔」と象徴的なタイトル。「帝劇の前で、菊五郎格子の手拭を一本五銭で賣ったり、(残酷なハガキ)の密賣を誰がしやうと思ったらう。死骸の指からでも抜きとったか、焼跡からでも掘出したやうに見せかけて、文銭の指輪を煙でいぶして」と情景を描く。
★「見榮坊な人間の弱点につけこんで賣りつけてゐる商人がある。命を二つも三つも拾った素裸身の人間は、もう命が惜しくもないらしい。浅草公園では手荒い喧嘩の四つ五つない夜はないさうだ。酒だ、女だ、いつ死ぬか人間に何がわかる、観音様だけが御存じだ。東京は、バビロンの昔に還った」と、夢二は警鐘しながら連載を終えた。(岳 重人)
2014(平成26)年1月22日
「大寒」の3日目に
2014年01月31日
「夢二・バビロンの昔」に想う……『国護り人』からのメッセージ(45)
posted by 岳重人 at 21:24| Comment(0)
| 日記
「夢二・大正ロマン」に想う……『国護り人』からのメッセージ(44)
自警団が軍人たちを真似て街の角々で検問をやっていた。「大人たちまでが巡査の眞似や軍人の眞似をして好い氣分になって」と、夢二が9月19日付「自警団遊び」は、あの時の大人たちが朝鮮人虐殺をした現場を真似ていた、という恐ろしい遊びだったのだ。直ちに検束され、暴虐の限りの暴行を受け、殺害されたのは数知れない。
★警視庁が9月3日に配布したビラに「不逞鮮人妄動ノ噂盛ナルモ」と「不逞」という言葉があったことにお気づきだろうか。これが「不逞鮮人」を流布する『源』になっていたのだ。「気ままにふるまい、ずうずうしい、不埒なさま」を称して「不逞の輩」と、当時から差別用語だった。ある面では「不逞」を扇動していたことになる。
★ここで、忘れてはならない大事件がある。『鐘撞き人』のKenjiが「宵待草」を聴きながら親愛なるファン・ホッホさんへの手紙の中で「1922年8月、大杉栄氏はファーブル『昆虫記』を翻訳され、ちょうど没後90年だ。翌年の関東大震災直後に『甘粕事件』で伊藤野枝とアメリカ国籍の6歳の甥・橘宗一の三人が惨殺された」
★前段に「1915(大正3)年、青鞜社員で(新しい女)の一人で『青鞜』の発行権を引き継ぎ主宰したのが伊藤野枝です。20歳の若い編集長は≪無主義、無規則、無方針≫を旗印に、習俗打破を主張して貞操論や堕胎論を果敢に展開した。…社会的関心とともにアナーキズム運動の中心人物の大杉栄に惹かれ恋愛・同棲します」とあった。
★同時期の1914(大正3)年に夢二(30)は、日本橋区呉服橋町で「港屋絵草紙店」を開店し、笠井彦乃と交際を始め翌年には他万喜と別れて彦乃と結ばれている。そして1916年2月には京都に居を移し、三男の草一を出生。この頃からセノオ楽譜『お江戸日本橋』などを手がけ、以後280に及ぶシリーズの装幀を行って行くことになる。
★大震災は市民生活を一変させた。華やかでメランコリックな(大正ロマンチシズム)の香りは、もうどこにも存在しなかった。夢二の人気も凋落した時期だった。「戦勝以来一躍して世界の日本帝国になって、その商業主義、唯物主義が所謂文化の絶頂を示した観があったが、自然の一揺りに、一瞬にしてぴしやんこになってしまった」
★「しかし破壊されたのは建築物に過ぎない、所謂文化はまた再び栄えるに違ひない。…私達にとって欧州戦争は、対岸の火事ほどの実感もなかったが、こん度の震災で、ほんとうに、世界思想の推移をはっきりと見たやうに思ふ。我等は何を成すべきかを、私どもは、ことに新しく考えねばならない」(『婦人世界』大正12年10月号)。
★「観音堂の鳩を見舞にいったと言へば笑われるであらう。しかしどうしたものか浅草の火事で一番に鳩と十二階が氣になった。いってみると鳩も、銀杏の木に巣くってゐる鶏も無事でゐた。しかしあの騒ぎで、餌はないしへとへとに労れてよろよろしてゐたそうだ。飢えた避難者の為に、どれだけ殺されたかわからない」(9月23日付)(岳 重人)
2014(平成26)年1月21日
「初大師」の日に
★警視庁が9月3日に配布したビラに「不逞鮮人妄動ノ噂盛ナルモ」と「不逞」という言葉があったことにお気づきだろうか。これが「不逞鮮人」を流布する『源』になっていたのだ。「気ままにふるまい、ずうずうしい、不埒なさま」を称して「不逞の輩」と、当時から差別用語だった。ある面では「不逞」を扇動していたことになる。
★ここで、忘れてはならない大事件がある。『鐘撞き人』のKenjiが「宵待草」を聴きながら親愛なるファン・ホッホさんへの手紙の中で「1922年8月、大杉栄氏はファーブル『昆虫記』を翻訳され、ちょうど没後90年だ。翌年の関東大震災直後に『甘粕事件』で伊藤野枝とアメリカ国籍の6歳の甥・橘宗一の三人が惨殺された」
★前段に「1915(大正3)年、青鞜社員で(新しい女)の一人で『青鞜』の発行権を引き継ぎ主宰したのが伊藤野枝です。20歳の若い編集長は≪無主義、無規則、無方針≫を旗印に、習俗打破を主張して貞操論や堕胎論を果敢に展開した。…社会的関心とともにアナーキズム運動の中心人物の大杉栄に惹かれ恋愛・同棲します」とあった。
★同時期の1914(大正3)年に夢二(30)は、日本橋区呉服橋町で「港屋絵草紙店」を開店し、笠井彦乃と交際を始め翌年には他万喜と別れて彦乃と結ばれている。そして1916年2月には京都に居を移し、三男の草一を出生。この頃からセノオ楽譜『お江戸日本橋』などを手がけ、以後280に及ぶシリーズの装幀を行って行くことになる。
★大震災は市民生活を一変させた。華やかでメランコリックな(大正ロマンチシズム)の香りは、もうどこにも存在しなかった。夢二の人気も凋落した時期だった。「戦勝以来一躍して世界の日本帝国になって、その商業主義、唯物主義が所謂文化の絶頂を示した観があったが、自然の一揺りに、一瞬にしてぴしやんこになってしまった」
★「しかし破壊されたのは建築物に過ぎない、所謂文化はまた再び栄えるに違ひない。…私達にとって欧州戦争は、対岸の火事ほどの実感もなかったが、こん度の震災で、ほんとうに、世界思想の推移をはっきりと見たやうに思ふ。我等は何を成すべきかを、私どもは、ことに新しく考えねばならない」(『婦人世界』大正12年10月号)。
★「観音堂の鳩を見舞にいったと言へば笑われるであらう。しかしどうしたものか浅草の火事で一番に鳩と十二階が氣になった。いってみると鳩も、銀杏の木に巣くってゐる鶏も無事でゐた。しかしあの騒ぎで、餌はないしへとへとに労れてよろよろしてゐたそうだ。飢えた避難者の為に、どれだけ殺されたかわからない」(9月23日付)(岳 重人)
2014(平成26)年1月21日
「初大師」の日に
posted by 岳重人 at 19:19| Comment(0)
| 日記
「夢二・自警団の暴走」に想う……『国護り人』からのメッセージ(43)
「最初の…流言の『源』がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、若しもそれを次から次と取次ぐべき媒質が存在しなければ『伝播』は起こらない。随って所謂流言が流言とし得ないで、其場限りに立ち消えになってしまうことも明白である」。大災害の中で防波堤になるべき市民が「媒質」になる恐ろしさを分析した。
★9月20日(木)付の『東京災難画信』は衝撃的だ。「災害の翌日に見た被服廠は實に死體の海だった。戦争の為めに戦場で死んだ人達は、おそらくこれ程悲惨ではあるまい。つひさっきまで生活してゐた者が、何の為めでもなく、死ぬ謂はれもなく死んでゆくのだ。死にたくない、どうかして生きたいと、もがき苦しんだ形」と描写する。
★「そのままに、苦患の波が、ひしめき重なってゐるのだ。…子を抱きしめて死んだ女は、哀れではあるがまだ美しい。血氣の男の死と戦った形は、とても傷ましくて、どうしても描く氣にはなれなかった。…せめて死者のために、工場の煙の来ない緑の楽土にしてほしい。柳橋に柳が沢山植てあったり、緑町が文字通り緑であったら」
★これほどの大災害から免れたのかも知れない、と夢二は最後に焼かれている死體を4日前に写生しながら記事にしたのだ。大震災から3週間後の21日(金)付には「骨拾ひ」を写生している。氣狂日和の黒い雨雲が低く垂れて死體を焼く灰色の煙がが被服廠の空地をなめる…人間の命の果敢さを感じる」と、凶暴な惨害の渦中にいる。
警視庁は9月3日、ビラを各警察署管内に配布した。「不逞鮮人妄動ノ噂盛ナルモ、右ハ多クハ事実相違シ、訛伝ニ過ギズ、鮮人ノ大部分ハ順良ナルモノニツキ濫リニ之ヲ迫害シ、暴行ヲ加ウル等無之様注意セラレ度シ」。狂った自警団には「俺だって朝鮮人のすべてが不逞鮮人とは思っちゃいないが…」と、ビラの効果は全くなかった。
★被害地では何が起きていたのか。便利な識別法が「十五円五十銭」だった。特に意味のない単なる貨幣単位にどんな効果があるのだろうか。この言葉が多くの朝鮮人の命を奪う悪魔の金額になった。こんな光景が繰り返された。汽車が停車場に着くと、剣付き銃を持った兵士が、窓から首を突っ込んで車内を検問し始めた。「おい、貴様」
★「ヂュウゴエン、ゴヂッセン」は「チュウゴエン、コチュッセン」と発音するのだ。したがって先のように発音できないのは朝鮮人とされたのだ。
★自警団が軍人たちを真似て街の角々で検問をやっていた。「大人たちまでが巡査の眞似や軍人の眞似をして好い氣分になって」と、夢二が9月19日付「自警団遊び」は、あの時の大人たちが朝鮮人虐殺をした現場を真似ていた、という恐ろしい遊びだったのだ。直ちに検束され、暴虐の限りの暴行を受け、殺害されたのは数知れない。(岳 重人)
2014(平成26)年1月20日
「大寒」の日に
★9月20日(木)付の『東京災難画信』は衝撃的だ。「災害の翌日に見た被服廠は實に死體の海だった。戦争の為めに戦場で死んだ人達は、おそらくこれ程悲惨ではあるまい。つひさっきまで生活してゐた者が、何の為めでもなく、死ぬ謂はれもなく死んでゆくのだ。死にたくない、どうかして生きたいと、もがき苦しんだ形」と描写する。
★「そのままに、苦患の波が、ひしめき重なってゐるのだ。…子を抱きしめて死んだ女は、哀れではあるがまだ美しい。血氣の男の死と戦った形は、とても傷ましくて、どうしても描く氣にはなれなかった。…せめて死者のために、工場の煙の来ない緑の楽土にしてほしい。柳橋に柳が沢山植てあったり、緑町が文字通り緑であったら」
★これほどの大災害から免れたのかも知れない、と夢二は最後に焼かれている死體を4日前に写生しながら記事にしたのだ。大震災から3週間後の21日(金)付には「骨拾ひ」を写生している。氣狂日和の黒い雨雲が低く垂れて死體を焼く灰色の煙がが被服廠の空地をなめる…人間の命の果敢さを感じる」と、凶暴な惨害の渦中にいる。
警視庁は9月3日、ビラを各警察署管内に配布した。「不逞鮮人妄動ノ噂盛ナルモ、右ハ多クハ事実相違シ、訛伝ニ過ギズ、鮮人ノ大部分ハ順良ナルモノニツキ濫リニ之ヲ迫害シ、暴行ヲ加ウル等無之様注意セラレ度シ」。狂った自警団には「俺だって朝鮮人のすべてが不逞鮮人とは思っちゃいないが…」と、ビラの効果は全くなかった。
★被害地では何が起きていたのか。便利な識別法が「十五円五十銭」だった。特に意味のない単なる貨幣単位にどんな効果があるのだろうか。この言葉が多くの朝鮮人の命を奪う悪魔の金額になった。こんな光景が繰り返された。汽車が停車場に着くと、剣付き銃を持った兵士が、窓から首を突っ込んで車内を検問し始めた。「おい、貴様」
★「ヂュウゴエン、ゴヂッセン」は「チュウゴエン、コチュッセン」と発音するのだ。したがって先のように発音できないのは朝鮮人とされたのだ。
★自警団が軍人たちを真似て街の角々で検問をやっていた。「大人たちまでが巡査の眞似や軍人の眞似をして好い氣分になって」と、夢二が9月19日付「自警団遊び」は、あの時の大人たちが朝鮮人虐殺をした現場を真似ていた、という恐ろしい遊びだったのだ。直ちに検束され、暴虐の限りの暴行を受け、殺害されたのは数知れない。(岳 重人)
2014(平成26)年1月20日
「大寒」の日に
posted by 岳重人 at 17:58| Comment(0)
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