鹿児島の知覧特攻基地から飛び立った特攻機は薩摩富士と呼ばれる開聞岳を背にして沖縄に向かう。「八紘一宇」は軍国主義のスローガンだ。日本帝国の海外侵略を正当化するための標語であり、「全世界を一つの家のように統治する」ことが大義名分になった。このために二度と開聞岳の美しい夕日を眺めることができなかった。
★1945年4月7日、14時23分に「一億総特攻」の大和沈没時の爆発音は、鹿児島でも遠雷のように聞こえた。ある特攻隊員は4月に入ると、辞世の句を日記に挿入していく。4月12日(木)天候晴は「片雲空にただよいて我また気分軽し。…君の為国の為に散りゆきし 御跡したいて 我ぞ出立つ」と故里のご両親の健康を案じる。
★4月18日(水)天候晴「桜花一ひら二ひら舞いて我等の前途、職務に唱和す。嗚呼偉大なる大なるかな大自然、これに勝たんが為に幾多の犠牲は拂われ、風景は破壊された。然し正ある人道に立つ。大和民族に依りて樹立される日も間近ならん。我等が先輩はまねく、心は勇む。長月日、愛用せしこの日記を附するも本日が最後かも知れない」
★「唯終わりに臨みて陛下の万才を唱え、国家の必勝を期するのみ。両親よさようなら。現在までの不幸を御許し下さい。元気で前線基地に向かいます」と、別れを告げる。24日(火)晴「白雲天を覆へるが如く淡くかかりて、黄塵また折から風に視野を覆う。愈々明日は内地に向け出発だ。愛機ともこれが最後、現在何も思い残す事無し」
★4月25日(水)晴後曇「…最近身体の調子悪くどうもはっきりせぬが、切換を充分に為し、常に意義ある生活を送らねばならぬ。明日こそは出発だ、征こう戦場へ。菊一輪胸に抱きて我は征く 深きおもひを胸に秘めつつ」と、体調不良のため1日出撃を延ばすが、走馬燈のように隊員の脳裏に幾多の思い出が去来しては消えていく。
★そして27日(金)晴「にぎやかなりし旅館での思い出、今晩は唯一人なり。…数々の思い出、泉の如く湧き出で、激流となりて流れ去る。生涯忘れ得ぬ事多々、人生21年の全生涯通じての最大の喜びであり、楽しみであったであろう。南海の果に競う、皇軍将共に感謝しつつ、静かに安らかなる眠りに入る。」と、彼は飛び立った。
★「朝夕に君をおもひて我は征く またぞ会ふ夕を夢に見つつも」が、日記帳の裏表紙の裏面に記された「心の遺書」だった。そして1か月後の5月29日に着便した生家の両親に送った最期の手紙の中には、知覧基地の「桜の小枝」が同封されていた。血染めの日の丸の旗に遺骨代わりに贈った桜のつぼみと小枝が静かに物語る……。(岳 重人)
2014(平成26)年1月10日
「初金比羅」の日に
2014年01月15日
「ある特攻隊員・出撃の時」に想う……『鐘撞き人』からのメッセージ(33)
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| 日記
「ある特攻隊員・わが故里」に想う……『鐘撞き人』からのメッセージ(32)
ある特攻隊員は1月8日(月)天候晴の『日記』に綴る。「午前飛行演習。大空高く大満州の広野と取り組む時、我等の心中に沸々として湧き出づるものあり。征く所苦あり、然してまた楽あり。征服の如何はまたその人の努力如何に在り、人物の大量如何に在り」と、熊本から大満州の訓練飛行場を移って初めて正月を迎えた若者だ。
★1945年4月7日、14時23分に「一億総特攻」の命を受けた世界最大の戦艦大和は壮絶な最期を遂げた。九州・坊の岬沖で左舷側に転覆後、弾薬庫の爆発音を轟かせ船体を真っ二つに沈没していった。大和全乗員のうち2,740名が戦死し、生存者はわずか1割弱276名だ。この時の爆発音は、鹿児島でも遠雷のように聞こえたという。
★4月7日(土)天候曇の『日記』には「…内地もまさに戦場となるに到った今日、明日の内地の状況もわからぬ現在である。慈愛深きご両親様、永久にその御健康を御祈り致します。桜の花もやがては故里を、武士の心そのもので彩るも間近ならん。武士の表現なる此の桜花また良き心の糧として我を導きくれたり」と、故里を想う。
★「思いはつのる南国の戦況、必ずや我の死戦場となるであろう。不肖唯任務完遂を期するのみ」と、思いを馳せる。そして「桜花胸に抱きて丈夫は、雄々しくも飛び立つ南海の果」と辞世の一句のつもりで詠む。戦争の現況を何も知らされていない。自らを奮い立たせるための勇猛果敢な勇者「ますらお」に準えた一句は、とてもつらい。
★15年戦争へ向けての1931(大正2)年にハワイ中学校(本願寺系)の第一回母国見学団に対する歓迎の挨拶の言葉にも、『武士道』精神が散りばめられる。「日本移民は養子縁組として米国に縁づいたのだから、二世諸君は米国に忠誠を尽くさねばならぬ。それが日本古来の武士道精神にかなう…」は、横浜商工会議所会頭の挨拶である。
★また、京都第16師団将軍は「もし不幸にして日米が戦う時には、われわれは戦火の中に相対することになる。…諸君はアメリカに行った養子である。諸君が養家のために忠実な子供となり、勇ましく行動する事を希望する。諸君がそう行動してくれることが、日本の武士道精神であり、日本国民の誇りである…」と、訓示した。
★「さ」些末な事も忘れず申送れよ確実に、「き」伎倆一杯操るな、「ゆ」油量忘れてあわれ不時着、「め」目で読め友機の心と動き、「み」右に飛行機左に一目、「し」人事尽くせば神助あり、と『操縦訓』にも「天佑神助」が表れる。よく日本人は「神風」といって神頼みになる。騎士道から生まれた武士道にも神懸かりの怪しさが漂う。
★熊本や鹿児島の特攻基地から飛び立った特攻機は薩摩富士と呼ばれる開聞岳を背にして沖縄に向かう。「八紘一宇」は軍国主義のスローガンだ。日本帝国の海外侵略を正当化するための標語であり、「全世界を一つの家のように統治する」ことが大義名分になった。このために二度と開聞岳の美しい夕日を眺めることができなかった。(岳 重人)
2014(平成26)年1月9日
1942年「学徒出動命令」の日に
★1945年4月7日、14時23分に「一億総特攻」の命を受けた世界最大の戦艦大和は壮絶な最期を遂げた。九州・坊の岬沖で左舷側に転覆後、弾薬庫の爆発音を轟かせ船体を真っ二つに沈没していった。大和全乗員のうち2,740名が戦死し、生存者はわずか1割弱276名だ。この時の爆発音は、鹿児島でも遠雷のように聞こえたという。
★4月7日(土)天候曇の『日記』には「…内地もまさに戦場となるに到った今日、明日の内地の状況もわからぬ現在である。慈愛深きご両親様、永久にその御健康を御祈り致します。桜の花もやがては故里を、武士の心そのもので彩るも間近ならん。武士の表現なる此の桜花また良き心の糧として我を導きくれたり」と、故里を想う。
★「思いはつのる南国の戦況、必ずや我の死戦場となるであろう。不肖唯任務完遂を期するのみ」と、思いを馳せる。そして「桜花胸に抱きて丈夫は、雄々しくも飛び立つ南海の果」と辞世の一句のつもりで詠む。戦争の現況を何も知らされていない。自らを奮い立たせるための勇猛果敢な勇者「ますらお」に準えた一句は、とてもつらい。
★15年戦争へ向けての1931(大正2)年にハワイ中学校(本願寺系)の第一回母国見学団に対する歓迎の挨拶の言葉にも、『武士道』精神が散りばめられる。「日本移民は養子縁組として米国に縁づいたのだから、二世諸君は米国に忠誠を尽くさねばならぬ。それが日本古来の武士道精神にかなう…」は、横浜商工会議所会頭の挨拶である。
★また、京都第16師団将軍は「もし不幸にして日米が戦う時には、われわれは戦火の中に相対することになる。…諸君はアメリカに行った養子である。諸君が養家のために忠実な子供となり、勇ましく行動する事を希望する。諸君がそう行動してくれることが、日本の武士道精神であり、日本国民の誇りである…」と、訓示した。
★「さ」些末な事も忘れず申送れよ確実に、「き」伎倆一杯操るな、「ゆ」油量忘れてあわれ不時着、「め」目で読め友機の心と動き、「み」右に飛行機左に一目、「し」人事尽くせば神助あり、と『操縦訓』にも「天佑神助」が表れる。よく日本人は「神風」といって神頼みになる。騎士道から生まれた武士道にも神懸かりの怪しさが漂う。
★熊本や鹿児島の特攻基地から飛び立った特攻機は薩摩富士と呼ばれる開聞岳を背にして沖縄に向かう。「八紘一宇」は軍国主義のスローガンだ。日本帝国の海外侵略を正当化するための標語であり、「全世界を一つの家のように統治する」ことが大義名分になった。このために二度と開聞岳の美しい夕日を眺めることができなかった。(岳 重人)
2014(平成26)年1月9日
1942年「学徒出動命令」の日に
posted by 岳重人 at 18:57| Comment(0)
| 日記