「朝夕に君をおもひて我は征く またぞ会ふ夕を夢に見つつも」が、日記帳の裏表紙の裏面に記された「心の遺書」だった。そして1か月後の5月29日に着便した生家の両親に送った最期の手紙の中には、知覧基地の「桜の小枝」が同封されていた。血染めの日の丸の旗に遺骨代わりに贈った桜のつぼみと小枝が静かに物語る……。
★1942年6月5日から7日にかけ、ミッドウェー海戦。日本軍はミッドウェー島空襲を行っただけで米機動艦隊の発見に遅れ、発進直前の零戦を、がら空きの上空から米空母艦載機が急降下爆撃を敢行。そのために日本海軍は空母赤城・加賀・蒼龍の3隻が沈没し、残った飛龍もヨークタウン号を撃沈した後に沈没する大敗を喫した。
★「ゑ」円滑柔軟神技を磨け、「ひ」飛行軍紀は厳粛に、「も」<もとへ>は無えぞよ空の上、「せ」先輩に聞け苦心談、「す」好きに迄なれ<エキパージュ>、「ん」運ではないぞ努力なり、と『操縦訓』は最後を締めくくる。ここでテーマになるのは航空戦術と空母艦隊の配置だ。どんなに飛行部隊が神技を磨いても一人では何もできない。
★真珠湾奇襲で甚大なダメージを受けた米国海軍は機動部隊を組織し、その敗因対応策を検討し、輪型陣対防衛システムという優れたアイディアを絞り出す。それは空母を中心に半径1.5キロの円の上に戦艦、巡洋艦等を等間隔に9隻配置し、敵の航空攻撃に備える。試行錯誤を重ねながら、ミッドウェー海戦に結実し、一大転機になった。
★巨匠ジョン・フォードが命をかけて記録した戦争ドキュメンタリー映画『ミッドウェイ海戦』がある。実際に、零戦の銃撃で重傷を負いながらも撮影した18分の短編ながら迫力は充分だ。ナレーションはヘンリー・フォンダが動的な爆撃シーンを物静かな語り口で引き付ける。その時に流れる海兵隊の行進曲と歌詞が忘れられない。
★「権利と自由を守り、最初に戦う者として。そして我らの高潔な名誉を守るため。我々が誇りとするその名はアメリカ合衆国海兵隊」。戦争の影響もなく島の鳥は自由であるのどかな海辺に行進シーンが映し出される。突如、零戦の爆撃によって赤十字マークの100名ベッドがある仮設病院もモクモクと黒煙を上げながら焼け落ちる。
★最後には「沈没した空母4隻」ボードに黒ペンキでXマーク。「損壊した日本軍戦闘機300機」には赤ペンキでVサインのVictory勝利のメッセージが送られる。見事だ。あのダンのエッセイの「真珠湾方面の空には黒煙が上がっている」が思い出された。
★「電話が鳴った。赤十字の救護班からの、すぐ集合せよとの命令だ(彼は非常時対策の救護訓練を受けていた)。心配する母親をなだめ、2,3枚のブレッドを持つや、自転車に飛び乗って救護本部のマカンーのスクールへ駆けつけた。それからの5日間は負傷者の手当て、死体の始末で、ダンは一回も家に帰ることが出来なかった」(岳 重人)
2014(平成26)年1月11日
「鏡開き」の日に
2014年01月19日
「ダン・偏見との闘い」に想う……『国護り人』からのメッセージ(34)
posted by 岳重人 at 15:53| Comment(0)
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