2014年01月21日

「ダン・日系の上院議員」に想う……『国護り人』からのメッセージ(36)

「パシフィック・クラブのメンバーに入れてもらええると思うか。ダン、僕はGIビルを利用して法律を学ぼうと思う。ハワイを真の民主主義の国にするために政治家になろう」。1947年に除隊になると、その年の内に民主党に入党した。彼によると共和党は物資、財産を重視し、民主党は人、そのあり方に重点を置く、と理解していた。

★友人たちはこぞって、政権の座についたことのない万年野党に入党するダンを嘲笑って、「寄らば大樹の陰」で政権政党の共和党に鞍替したほうがいい、と翻意をすすめた。しかし「大義親を滅す、米国の恩を忘れるな」と国家のため生命を賭して戦った自負心は、ダンに正義のためなら独立独歩の確かな道を歩む気概を与えていた。

★最初に1942年9月に入学した時から8年後の50年に、ハワイ大学を卒業。続いてジョージ・ワシントン大学で法律を学んで2年後にホノルルに帰郷した。そして54年の選挙に県会下院の候補に立った。共和党の牙城の第四選挙区で日系人に、絶対に勝てるチャンスがなかった。演説会には共和党の回し者が入り妨害中傷した。

★民主党は共産主義に毒されている、という誹謗中傷には、ダンは立って叫んだ。「自分は全体主義と戦って右腕を国家に捧げている。共産主義との戦いに、国家がさらに左手を要求すれば、自分は潔く捧げるぞ!」会場の聴衆は感激した。結果は民主党が両院とも地滑り的勝利をもたらし、下院定員30中22、上院15中10になった。

★ついに民主党が第一党になったのだ。まるで国家の恩に捧げた右腕が人知れずガッツ・ポーズをしているようだった。勝利宣言をマイクの前で左手を固く握りしめ、イタリア戦線で”GO FOR BROKE”「日系人の差別と偏見からの自由を求めて」アメリカ合衆国に命を捧げた二世兵士の思い出に涙を抑えているダン井上の姿があった。

★4年後の58年には、一歩進めてハワイ上院議員になり、翌年の記念すべきハワイ州誕生の時には堂々と米国下院議員に当選し、ついに62年には米国上院議員となったのだ。「ハワイを真の民主主義の国にするために政治家になろう」と一念発起してからすでに15年の歳月が流れていた。人民のための法律を提出できる力を持った。

★日本人のアメリカ移民は1866年ハワイで始まり、20世紀初めサンフランシスコなどに日本人街が形成された。1924年の排日移民法で帰化不能外国人として、その後の入国禁止。太平洋戦争時には日系人が強制的に内陸部の転住収容所に送られた。

★1990年10月『日系人への謝罪状』にJ・ブッシュ米大統領が「…私たちははっきりと正義の立場に立った上で…損害賠償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は…自由と平等主義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。みなさんのご家族に幸あれ」と署名宣言しました。ダンは上院議員を50年間務めた。(岳 重人)


2014(平成26)年1月13日
「成人式」の日に
posted by 岳重人 at 17:31| Comment(0) | 日記

「ダン・政治家への道」に想う……『国護り人』からのメッセージ(35)

「権利と自由を守り、最初に戦う者として。そして我らの高潔な名誉を守るため。我々が誇りとするその名はアメリカ合衆国海兵隊」。戦争の影響もなく島の鳥は自由であるのどかな海辺に行進シーンが映し出される。突如、零戦の爆撃によって赤十字マークの100名ベッドがある仮設病院もモクモクと黒煙を上げながら焼け落ちる。


★やがて秩序だった救護班が整備され、昼夜交代の組織が出来上がると、ダンは夜勤組となり、昼はまた学校に通えることになった。1942年9月、ダンは医者を志願してハワイ大学に入学した。翌年1月陸軍省の二世志願兵募集が発表になると、一日でハワイの志願者は1,000名に達した。ダンは大学教授の忠告をしりぞけて志願した。


★入隊の希望に燃えた彼のために送別会が開かれ餞別もおくられた。だが集会所ではダンの名前が呼ばれなかった。必死になって入隊出来ない事情の説明を迫った彼に、やっと分かったことは、救護所での立派な活動と大学における医学の専攻によって兵役猶予、という理由だった。ダンは直ちに救護所に辞表を出し、大学をも退学した。


★志願の意志が固いことに、ダンの希望が叶えられて、明日は入隊するという前夜に父は息子に次のように諭した。「お前は、日本語の『恩』ということを知っているか、井上家はアメリカという国に恩を受けている。この恩に報いるのは、ダン、お前だぞ。お前は私らの跡取り、長男だ。母さんにとってもかけがえのない大事な息子だ」


★「だがその時が来たならば……そうだ、井上家の名を汚すようなことだけはしてくれるな」と、大義親を滅す、米国の恩を忘れるな、という教訓は、出征の前夜の二世兵士のほとんどがその親たちから受けたものだった。先に母からは将来のお嫁さんは日本の娘さんか、とてもお世話になったハワイアンが良いと打ち明けられていた。


★第二次大戦で再度のイタリア戦線へ出撃中、小隊長として部下を指揮していた折に、右手を打ち砕かれた。ダン井上の脳裏をかすめた考えは「これで医者にはなれない」ということだった。やがてナポリに後送され、それから本土に帰還してアトランティック・シティの病院に収容されたが、そこで同じく療養中の高橋栄大尉に出会った。


★親からも聞かされたこと、身に染みて味わってもいた人種的偏見と差別を克服するために、政治家になって人民のためになる法律を作ろうとダン井上が決心したのは、この時に高橋から聞いた次の言葉によるという。「ダン、君は日系米国市民であることを誇りにするといったが、ハワイで日系人が知事になれるだろうか」さらに続く。


★「パシフィック・クラブのメンバーに入れてもらええると思うか。ダン、僕はGIビルを利用して法律を学ぼうと思う。ハワイを真の民主主義の国にするために政治家になろう」。1947年に除隊になると、その年の内に民主党に入党した。彼によると共和党は物資、財産を重視し、民主党は人、そのあり方に重点を置く、と理解していた。(岳 重人)



2014(平成26)年1月12日
「成人式」の前日に
posted by 岳重人 at 15:13| Comment(0) | 日記