2014年01月28日

「大震災後の竹久夢二」に想う……『国護り人』からのメッセージ(40)

ある特攻隊員の心許せる女性は、絵葉書に「自分の日直には…兵隊さん方が戦地で御苦労なさっておられる話等をきかせつつ、日々の務めにはげんでおります。貴君には空の荒鷲として御活躍される日々御期待しておられることと存じます。お身体に気をつけて。さよなら。昭和19年2月4日」と、野辺の『忘れな草』に記した。

★<東北再生スケッチ>三部作の『舟曳き人』の第一信は次のように始まっていた。「新しい2012年を迎えてお祝いしたいところだが、1月17日は17年前の1995(平成7)年に阪神・淡路大震災があった日だね。あの時は、長田地区などからモクモクと煙が上がり、大きなビルが崩れかけ、高速道路の橋梁が脆くも砕け落ちた光景に」

★慄然とした、とファン・ホッホ(ヴァン・ゴッホのオランダ読み)さんがKenjiへ、新年の挨拶をしている。「マグニチュードM7.3の直下型地震によって6,437名の貴い命が犠牲になった。早朝の5時46分で誰もまだ眠りについていた時だね。3.11は午後2時46分だった。遠くオーヴェールの地から哀悼の念を捧げたい」と祈った。

★不思議なことに9時間後の「46分」という共通の時間が感じられる。先の野辺の『忘れな草』は有名な竹久夢二の絵葉書だ。夢二は今年ちょうど没後80年を迎える。1934(昭和9)年9月1日午前5時40分「ありがとう」の言葉を残して、結核のために逝去(享年49)した。阪神・淡路大震災の午前5時46分とわずかに6分違いだった。

★9月1日が命日という不思議な因縁は、関東大震災の記念日でもあるからだ。91年前の1923(大正12)年9月1日午前11時58分32秒に発震。震源は東京の約80キロ相模湾沖伊豆大島付近の海底でM7.9だった。死者行方不明10万5千人、住宅の全半壊は、25万軒を超えた。浅草のランドマーク「十二階」が途中から崩壊した。

★夢二は渋谷区宇田川町に住んでおり家は無事だったが、友人たちと始めようとしていた「どんたく図案社」は壊滅していた。それでもめげずに有島生馬と東京の町をスケッチして歩き、『都新聞』(現・東京新聞の前身)に「東京災難画信」を連載した。夢二は大災害の中で路頭に迷う人々の生活に寄り添って、様々な人間模様を描く。

★「昨日まで、新時代の伊達男が、所謂文化婦人の左の手を取って、ダンシングホールからカフェーへとヂャック・ピックルの足取りで歩いてゐた。所謂大正文化の模範都市と見えた銀座街が、今日は一望数里の焦土と化した。自分の頭が首の上に着いてゐることさへ、まだはっきりと感じられない」大正12年9月14日(金)の第一信だ。

★翌日の第二信で「琴平様や、増上寺や、観音堂が焼残ったことには、科学的理由もあらうが、人間がこんなに自然の残虐に逢って智識の外の大きな何かの力を信じるのを、誰が笑へるでせう。神や佛にすがってゐる人のあまりに多いのを私は見た。観音堂のおみくじ場に群集して、一片の紙に運命を託さうとしてゐる幾百の人々を見た」(岳 重人)


2014(平成26)年1月17日
19年前の「阪神淡路大震災」の日に
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「九州の不戦の誓い」に想う……『国護り人』からのメッセージ(39)

長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の制作。1983年の「中国人殉教者慰霊塔」に「悲しみは国境を越えて、ここに眠る中国人殉教者564柱のみ霊は第二次世界大戦末期三池炭鉱で強制連行に就役せしめられた犠牲者であります。当時『兎狩り作戦』と称したこの事件はその名の如く…非人道的な事件でした」と慰霊と謝罪をされた。


★先の慰霊碑の左右には中国紅十字会(赤十字社)が寄贈した狛犬二体が護っている。『兎狩り作戦』の非道さを二度と繰り返させないための守護神のようだ。「無辜の住民、無力な非戦闘員をまるで兎を狩るが如く強制連行した非人道的な事件でした。彼らは生木を裂かれる思いで肉親たちと別れて来ました」と、強制連行を告発する。

★「併も虐待、拷問、事故等によって現場で惨死した564名、生きて母国に帰還できなかった無念の思いやまさに断腸の思いであったろうと、同情の泪を禁ずることができません。私たちは戦争の名においてこのような悲惨な事件の加害者になったことを反省せずにいられません。しかも一度犯した罪は取り返しがつきません」と続く。

★「あなた方の痛恨極まりない悲しみの声が聞こえてくるようであります。しかし私たちはなす術を知りません。唯々泪するばかりです。人間の悲しみには国境はないというのに、国境が人間を悲しみの渕に突き落とすとは何たる不条理でありましょうか」で、国境がなければと、ジョン・レノンの『イマジン』の歌詞を思い浮かべました。

★「私たちは今こそ過去の過ちを繰り返さない為に、あなた方のみ霊の前に永久不戦の誓いを捧げずにいられません。み霊よ、もって照鑑を垂れ給わんことを。昭和58年12月18日 願主深浦隆二」と、刻まれている。この「日中不戦の誓い」は、日本国憲法第9条そのもの。お隣の国ときな臭い現在こそ、噛み締めるべき誓いだ。

★今から9年前の2005年8月6日(土)に知覧特攻平和会館で祈りを捧げていた。そこには鹿児島沖から引き揚げられたままの零戦52型丙の残骸が、展示されていた。復元することなく海から浮かび上がってきた亡霊のような姿に奈落のショックを受けた。知覧が醸す武家屋敷の佇まいに不釣り合いな零戦が違和感を背負わせていた。

★まるで「武士道」が<特攻精神>のように喧伝され、教育され、若者たちが志願というよりは強制的に沖縄決戦のために海の藻屑と消え去った。「聖戦」貫徹を主張した超国家主義者のひとり宇垣中将は「なんじらは死ぬ。なんじらは皆、国土のために死ぬ。われもまた死ぬなり」[皆死ね、みな死ね、國の為俺も死ぬ]と、追い詰めた。

★ある特攻隊員の心許せる女性は、絵葉書に「自分の日直には…兵隊さん方が戦地で御苦労なさっておられる話等をきかせつつ、日々の務めにはげんでおります。貴君には空の荒鷲として御活躍される日々御期待しておられることと存じます。お身体に気をつけて。さよなら。昭和19年2月4日」と、野辺の『忘れな草』に記した。(岳 重人)


2014(平成26)年1月16日
「藪入り」の日に
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「日本の戦後補償」に想う……『国護り人』からのメッセージ(38)

戦後、日系人は旧来の土地に戻り、全米日系市民協会を中心に、戦時中の処遇に関する名誉回復に取り組んだ。その結果、1988年、議会は収容に対する謝罪と保証金の支払いなどを定めた「市民的自由法案」を可決し、冒頭の『謝罪状』の宣言後の1990年から1人あたり2万ドルの補償金の支払いが始められた。戦後45年になる。


★今から45年前の1969年の夏、私は三井商船のさくら丸でハワイのオアフ島ホノルルに降り立った。まだ学生時代だったので、ハワイの日系人についての専門的な多くの知識はなかったが、イタリア戦線で犠牲になった日系二世の眠る丘パンチボウルがあるのは知っていた。海岸沿いアラモアナ公園から見てハワイ州庁の裏手にあった。

★そのパンチボウルには十字架の墓標が理路整然と縦横斜めに一直線に並んでいた。しばし茫然自失して、その光景を眺めていた。その時に”GO FOR BROKE”の声が聞こえた…ように感じた。たぶん空耳だと周りを見回していた。後日、第442日系部隊が整然とハワイの象徴のヤシの木を背景に並んでいる写真を見て納得していた。

★やはり、あれは空耳ではなかったのだ、と思えたのだった。奇しくも<東北再生スケッチ>三部作の完結篇『鐘撞き人』の(重人のつぶやき)を校正している時に、ダニエル・イノウエ氏の訃報を聞いた。急きょ、先に紹介した追悼文を挿入した。今回50年間、上院議員を務めたダンの青年時代から政界へ決意するまでの逸話になった。

★ある特攻隊員の練習飛行基地は熊本にあった。海軍の人吉飛行場の東方にある神殿原飛行場は1943(昭20)年4月陸軍が地元の人々・生徒や朝鮮人労働者を使役して、東西1300m、南北500mの大きさをなんと3か月で完成させている。ここでは練習機による特攻隊の訓練が行われ、終戦直前には後部に爆弾を搭載したものに改造された。

★1938年5月5日「国家総動員法」を公布。人的・物的資源の統制運用を議会の承認なしに勅令で執行できるようになった。植民地の朝鮮半島から労働力確保のため「同法ヲ朝鮮、台湾、樺太に施行スル件」も勅令によって定めた。1939年7月末には「朝鮮人労務者内地移入ニ関スル件」で戦争遂行のため産業への動員計画を決めた。

★1942年11月末には東条内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定し、国家政策としての中国人強制連行を行った。2年後の44年2月末には「同内地移入ノ促進ニ関スル件」を決定し中国人の強制連行は本格化した。熊本の荒尾市に「日中不戦の森」がある。三井三池炭鉱の職員だった深浦隆二氏が私財を投じて建立された。

★長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の制作。1983年の「中国人殉教者慰霊塔」に「悲しみは国境を越えて、ここに眠る中国人殉教者564柱のみ霊は第二次世界大戦末期三池炭鉱で強制連行に就役せしめられた犠牲者であります。当時『兎狩り作戦』と称したこの事件はその名の如く…非人道的な事件でした」と慰霊と謝罪をされた。(岳 重人)


2014(平成26)年1月15日
「小正月」の日に
posted by 岳重人 at 10:17| Comment(0) | 日記