「わたしも先見の明がある。軍備の強化こそが中国を抑えられると早くから考えていた」と『強い国』を目指して国防費も倍々アップしていくつもりだろうか。有難迷惑だ。1000兆円の借金国に、そんなお金が何処にあるのか。飛行機代だけで1億円以上も超過で税金の無駄遣い。だから第一次大戦前の英独競合関係に口が滑るのだ。
★ヒトラーがドイツ連邦首相<国防派No.1>に就任した31年前の世界史を眺めてみよう。1902(明治35)年1月30日、日英同盟が締結された。「第1条:両締約国ハ若シ右等利益ニシテ列国ノ侵略的行動ニ因リ・・・干渉ヲ要スヘキ騒動ノ発生ニ因リテ侵迫セラレタル場合ニハ、・・・利益ヲ擁護スル為必要欠クヘカラサル措置ヲ」承認する。
★これは2年前の1900年義和団事件にまで遡らなければならない。北京に包囲された列国公使団らを救助し、清朝に圧力をかけるために英・米・仏・独・伊・墺・露・日等8か国の共同出兵がなされた。総数4万7400人のうち、2万2千人を日本が、1万374人をロシアが派遣して主力を構成している。つまり日本軍が半分を占めていた。
★1901年9月、北京議定書が調印され、賠償金が4億5000万両の支払い、北京・天津その他の駐兵権など清国にとって屈辱的な内容が押し付けられた。しかし、その後も満州に兵力を留めて、撤兵しないロシアとの間で、緊張が高まる。そこで、小村寿太郎外相は1901年12月7日の元老会議で意見書を提出して、日英同盟を採用した。
★翌年一月末に日英同盟はロンドンでトントン拍子に締結された。これが、日露戦争の伏線になったことがお分かりだろう。「日本国ニ取リテハ其清国ニ於テ有スル利益ニ加フルニ、韓国ニ於テ政治上並ニ商業上及、工業上格段ニ利益ヲ有スル以テ」と、いわゆる国の権益−「国益」を守るという大義名分で、攻め入る理由がここにある。
★何やらきな臭い。もうお気づきだろうが、2014年1月30日現在、通常国会で答弁されている「集団的自衛権」と同じことだ。安倍首相の施政方針演説でも「集団的自衛権や集団安全保障などについては、『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』の報告を踏まえ、対応を検討してまいります」と「10 積極的平和主義」を力説した。
★『美しい国へ』で「国連憲章51条には、『国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある』ことが明記・・・世界で国家がもつ自然の権利だ・・・権利はあるが行使できない、とする論理が、はたしていつまで通用するのだろうか。行使できるということは・・・ひとえに政策判断であり、めったに行使されるものではない」が、安倍ボンは暴走する。
★1907(明治40)年、日露戦争後に恐慌がやってくる。日本とロシアが朝鮮・満州に対する支配をめぐり1904年から翌年にかけ「勝利なき勝利」戦争だった。その上、アメリカ発の世界恐慌の波及による大打撃を受けたものだ。積極的平和主義なんかいらない。(岳 重人)
2014(平成26)年1月30日
「日英同盟締結」の日に
2014年02月24日
「日英同盟締結」の日に思う………『国護り人』のメッセージ(53)
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| 日記
「ヒトラー首相就任の日」に思う………『国護り人』のメッセージ(52)
モーツァルトの没後150年記念の1941年12月4日に、ウィーン国立歌劇場でナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスが、モーツァルトに贈るスピーチをしました。“明日、彼から人生最上の時期を与えられたウィーンの町で、彼の死の時刻に鐘が鳴り渡る時、すべての音楽の世界は彼とともにあることでしょう”とアマデウスを讃える。
★1933年1月30日にドイツ連邦首相<国防派No.1>ヒトラーはワイマール憲法を葬り去って、独裁体制を確立して思うがまま暴走していった。「1929年に始まった世界恐慌は、ヨーロッパの復興を支えていたアメリカの好況に打撃を与え、ドイツにおいてナチスの台頭をうながすことになった」とは安倍晋三・著『美しい国へ』の引用だ。
★さらに「1933年にはヒトラーがドイツの首相となり、領土拡張の野心を見せはじめる。20年代から政権の座にあったムッソリーニ率いるイタリアも、1935年にエチオピアに侵攻、1938年には、ナチスドイツがオーストリアとの合併を行った」と、安倍ボンは第二次大戦の原因とその経緯を第4章「日米同盟の構図」で語っている。
★また、第1章「わたしの原点」ではチャーチルへの讃歌を忘れない。「古今東西の政治家のなかで、わたしがもっとも決断力に富んでいたと思うのは、英国の首相チャーチルである。・・・かれには先見の明があった。軍備の強化こそがナチスを抑えられると早くから考えていた。はじめ、その主張は無視されていたが」と、決断力に心酔。
★「やがてチェンバレン内閣のヒトラーに対する『宥和政策』が、結果的にナチスドイツの侵略を招いたことがイギリス国民に理解されると、首相に選ばれる。のちに『一人の人間の精神の働きがこれほどまでに世界史の働きと一致したことはかつてなかった』と自ら語ったように、自分の判断の正しさに対する確信があった」と、絶賛だ。
★「結果、『どんな犠牲を払っても勝利する』と宣言して、連合国を勝利に導いた。チャーチルは若い頃から、すぐれた伝統と文化をもつ大英帝国の力を維持するには、国民生活の安定が不可欠だと考え、社会保障の充実を唱えてきた。安全保障と社会保障−じつはこれこそが政治家としての私のテーマなのである」と、決意を固める。
★そして結論として「確たる信念をもち、たじろがず、批判を覚悟で臨む−あらたな決意だった」と、政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである、という原点に返り、安倍ボンは目的を再確認することに執念を燃やす。そこで<国防派No.1>安倍首相は大英帝国時代のチャーチル首相に倣って、どこへ行こうとしているのか。
★「わたしも先見の明がある。軍備の強化こそが中国を抑えられると早くから考えていた」と『強い国』を目指して国防費も倍々アップしていくつもりだろうか。有難迷惑だ。1000兆円の借金国に、そんなお金が何処にあるのか。飛行機代だけで1億円以上も超過で税金の無駄遣い。だから第一次大戦前の英独競合関係に口が滑るのだ。(岳 重人)
2014(平成26)年1月30日
「ヒトラー首相就任」の日に
★1933年1月30日にドイツ連邦首相<国防派No.1>ヒトラーはワイマール憲法を葬り去って、独裁体制を確立して思うがまま暴走していった。「1929年に始まった世界恐慌は、ヨーロッパの復興を支えていたアメリカの好況に打撃を与え、ドイツにおいてナチスの台頭をうながすことになった」とは安倍晋三・著『美しい国へ』の引用だ。
★さらに「1933年にはヒトラーがドイツの首相となり、領土拡張の野心を見せはじめる。20年代から政権の座にあったムッソリーニ率いるイタリアも、1935年にエチオピアに侵攻、1938年には、ナチスドイツがオーストリアとの合併を行った」と、安倍ボンは第二次大戦の原因とその経緯を第4章「日米同盟の構図」で語っている。
★また、第1章「わたしの原点」ではチャーチルへの讃歌を忘れない。「古今東西の政治家のなかで、わたしがもっとも決断力に富んでいたと思うのは、英国の首相チャーチルである。・・・かれには先見の明があった。軍備の強化こそがナチスを抑えられると早くから考えていた。はじめ、その主張は無視されていたが」と、決断力に心酔。
★「やがてチェンバレン内閣のヒトラーに対する『宥和政策』が、結果的にナチスドイツの侵略を招いたことがイギリス国民に理解されると、首相に選ばれる。のちに『一人の人間の精神の働きがこれほどまでに世界史の働きと一致したことはかつてなかった』と自ら語ったように、自分の判断の正しさに対する確信があった」と、絶賛だ。
★「結果、『どんな犠牲を払っても勝利する』と宣言して、連合国を勝利に導いた。チャーチルは若い頃から、すぐれた伝統と文化をもつ大英帝国の力を維持するには、国民生活の安定が不可欠だと考え、社会保障の充実を唱えてきた。安全保障と社会保障−じつはこれこそが政治家としての私のテーマなのである」と、決意を固める。
★そして結論として「確たる信念をもち、たじろがず、批判を覚悟で臨む−あらたな決意だった」と、政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである、という原点に返り、安倍ボンは目的を再確認することに執念を燃やす。そこで<国防派No.1>安倍首相は大英帝国時代のチャーチル首相に倣って、どこへ行こうとしているのか。
★「わたしも先見の明がある。軍備の強化こそが中国を抑えられると早くから考えていた」と『強い国』を目指して国防費も倍々アップしていくつもりだろうか。有難迷惑だ。1000兆円の借金国に、そんなお金が何処にあるのか。飛行機代だけで1億円以上も超過で税金の無駄遣い。だから第一次大戦前の英独競合関係に口が滑るのだ。(岳 重人)
2014(平成26)年1月30日
「ヒトラー首相就任」の日に
posted by 岳重人 at 19:16| Comment(0)
| 日記
「ケネディ大統領」の就任演説に思う………『国護り人』のメッセージ(51)
1月26日「10代だっていやなんだ」と特定秘密保護法反対のデモで渋谷・原宿周辺に650人が参集し自信を持って安倍ボンのゴリ押しをに反旗を翻している。「秘密はいやだ!U−20デモ」の参加者は「権力者に都合よく解釈されるような法は良くない」と意見が言えるほど、ボンボンよりも大人なんですよ。若者に誇りを持ってもいいね。
★「ケネディ大統領は1961年1月の就任演説で、“我々に好意を持つ者であれ、敵意を持つ者であれ、すべての国をしても次のことを知らしめよ。我々は自由の確保とその勝利のために、いかなる代償も支払い、いかなる負担も厭わず、いかなる困難にも進んで直面し、いかなる友人も助け、いかなる敵とも戦う、ということを”」
★安倍ボンは好きな?ケネディ大統領就任演説を『美しい国へ』でも引用。その後がいけない。「ブッシュ大統領がこれと同じことをいえば、おそらく『なんと好戦的な』といわれるだろう。ケネディは、リベラルの代表格であり、民主党出身の大統領である。アメリカの大統領は、表現こそ違え、じつは代々、同じような主張をしている」
★この認識の仕方は小学生以下だ。よく子どものケンカの仲裁をすれば分かるが、「誰々ちゃんはいい」のに、泣きながら「なぜボクちゃんが同じことをいったらダメ?なの」と訴えている姿が浮かぶ。やはり安倍ボンは、駄々っ子の域を脱していない。一国の首相になる品格としては、まことに恥ずかしい限りだ。甘やかした結果だ。
★就任演説を引用するならば、次の一節にすべきだ。“我々があの最初の革命(独立戦争)の子孫だということを、我々は今日も忘れまい。この時、この場所から、友にも敵にも、次の言葉を伝えよう。すなわち、たいまつはアメリカの新しい世代に引き継がれた、ということを”と、先祖の遺志のシンボルである「たいまつ」をかざした。
★“その新しい世代は、今世紀に生まれ、戦争と、厳しく、苦しみを伴う平和に鍛えられ、古来の遺産を誇りとしている。さらに、我が国が国内外で常に守り続け、今日も守っている人権が、次第に侵害されつつあるのを目撃したり、許したりすることはないのだ”と、メッセージは明確だ。“the torch(たいまつ)はthe baton(バトン)”と言い換えられる。
★ケネディ大統領はワガママ安倍ボンと違って、
世紀の未来の若者たちを信頼し、誇りを持って人権を守ることを激励している。一方、自分の思うままにならないことでは、周囲が自分の言動を誤解している、と他人のせいにする。『施政方針演説』で35回も使った「世界」のダボス会議でも赤恥をかいてくる結果になっているのだ。
★J・F・ケネディ氏はわずか43歳で史上初カトリック系の35代大統領になった。1962年10月22日、キューバ危機は「米ソ核戦争の1秒前」と世界を震撼させた。そして、1年1か月後の1963年11月22日にケネディ大統領は遊説中のダラスで暗殺された。自由の担い手であり、演説の名手だったケネディ人気は、今も衰えない。(岳 重人)
2014(平成26)年1月28日
「初不動」の日に
★「ケネディ大統領は1961年1月の就任演説で、“我々に好意を持つ者であれ、敵意を持つ者であれ、すべての国をしても次のことを知らしめよ。我々は自由の確保とその勝利のために、いかなる代償も支払い、いかなる負担も厭わず、いかなる困難にも進んで直面し、いかなる友人も助け、いかなる敵とも戦う、ということを”」
★安倍ボンは好きな?ケネディ大統領就任演説を『美しい国へ』でも引用。その後がいけない。「ブッシュ大統領がこれと同じことをいえば、おそらく『なんと好戦的な』といわれるだろう。ケネディは、リベラルの代表格であり、民主党出身の大統領である。アメリカの大統領は、表現こそ違え、じつは代々、同じような主張をしている」
★この認識の仕方は小学生以下だ。よく子どものケンカの仲裁をすれば分かるが、「誰々ちゃんはいい」のに、泣きながら「なぜボクちゃんが同じことをいったらダメ?なの」と訴えている姿が浮かぶ。やはり安倍ボンは、駄々っ子の域を脱していない。一国の首相になる品格としては、まことに恥ずかしい限りだ。甘やかした結果だ。
★就任演説を引用するならば、次の一節にすべきだ。“我々があの最初の革命(独立戦争)の子孫だということを、我々は今日も忘れまい。この時、この場所から、友にも敵にも、次の言葉を伝えよう。すなわち、たいまつはアメリカの新しい世代に引き継がれた、ということを”と、先祖の遺志のシンボルである「たいまつ」をかざした。
★“その新しい世代は、今世紀に生まれ、戦争と、厳しく、苦しみを伴う平和に鍛えられ、古来の遺産を誇りとしている。さらに、我が国が国内外で常に守り続け、今日も守っている人権が、次第に侵害されつつあるのを目撃したり、許したりすることはないのだ”と、メッセージは明確だ。“the torch(たいまつ)はthe baton(バトン)”と言い換えられる。
★ケネディ大統領はワガママ安倍ボンと違って、
世紀の未来の若者たちを信頼し、誇りを持って人権を守ることを激励している。一方、自分の思うままにならないことでは、周囲が自分の言動を誤解している、と他人のせいにする。『施政方針演説』で35回も使った「世界」のダボス会議でも赤恥をかいてくる結果になっているのだ。
★J・F・ケネディ氏はわずか43歳で史上初カトリック系の35代大統領になった。1962年10月22日、キューバ危機は「米ソ核戦争の1秒前」と世界を震撼させた。そして、1年1か月後の1963年11月22日にケネディ大統領は遊説中のダラスで暗殺された。自由の担い手であり、演説の名手だったケネディ人気は、今も衰えない。(岳 重人)
2014(平成26)年1月28日
「初不動」の日に
posted by 岳重人 at 18:46| Comment(0)
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