2014年01月21日

「ダン・政治家への道」に想う……『国護り人』からのメッセージ(35)

「権利と自由を守り、最初に戦う者として。そして我らの高潔な名誉を守るため。我々が誇りとするその名はアメリカ合衆国海兵隊」。戦争の影響もなく島の鳥は自由であるのどかな海辺に行進シーンが映し出される。突如、零戦の爆撃によって赤十字マークの100名ベッドがある仮設病院もモクモクと黒煙を上げながら焼け落ちる。


★やがて秩序だった救護班が整備され、昼夜交代の組織が出来上がると、ダンは夜勤組となり、昼はまた学校に通えることになった。1942年9月、ダンは医者を志願してハワイ大学に入学した。翌年1月陸軍省の二世志願兵募集が発表になると、一日でハワイの志願者は1,000名に達した。ダンは大学教授の忠告をしりぞけて志願した。


★入隊の希望に燃えた彼のために送別会が開かれ餞別もおくられた。だが集会所ではダンの名前が呼ばれなかった。必死になって入隊出来ない事情の説明を迫った彼に、やっと分かったことは、救護所での立派な活動と大学における医学の専攻によって兵役猶予、という理由だった。ダンは直ちに救護所に辞表を出し、大学をも退学した。


★志願の意志が固いことに、ダンの希望が叶えられて、明日は入隊するという前夜に父は息子に次のように諭した。「お前は、日本語の『恩』ということを知っているか、井上家はアメリカという国に恩を受けている。この恩に報いるのは、ダン、お前だぞ。お前は私らの跡取り、長男だ。母さんにとってもかけがえのない大事な息子だ」


★「だがその時が来たならば……そうだ、井上家の名を汚すようなことだけはしてくれるな」と、大義親を滅す、米国の恩を忘れるな、という教訓は、出征の前夜の二世兵士のほとんどがその親たちから受けたものだった。先に母からは将来のお嫁さんは日本の娘さんか、とてもお世話になったハワイアンが良いと打ち明けられていた。


★第二次大戦で再度のイタリア戦線へ出撃中、小隊長として部下を指揮していた折に、右手を打ち砕かれた。ダン井上の脳裏をかすめた考えは「これで医者にはなれない」ということだった。やがてナポリに後送され、それから本土に帰還してアトランティック・シティの病院に収容されたが、そこで同じく療養中の高橋栄大尉に出会った。


★親からも聞かされたこと、身に染みて味わってもいた人種的偏見と差別を克服するために、政治家になって人民のためになる法律を作ろうとダン井上が決心したのは、この時に高橋から聞いた次の言葉によるという。「ダン、君は日系米国市民であることを誇りにするといったが、ハワイで日系人が知事になれるだろうか」さらに続く。


★「パシフィック・クラブのメンバーに入れてもらええると思うか。ダン、僕はGIビルを利用して法律を学ぼうと思う。ハワイを真の民主主義の国にするために政治家になろう」。1947年に除隊になると、その年の内に民主党に入党した。彼によると共和党は物資、財産を重視し、民主党は人、そのあり方に重点を置く、と理解していた。(岳 重人)



2014(平成26)年1月12日
「成人式」の前日に
posted by 岳重人 at 15:13| Comment(0) | 日記
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