2014年01月28日

「日本の戦後補償」に想う……『国護り人』からのメッセージ(38)

戦後、日系人は旧来の土地に戻り、全米日系市民協会を中心に、戦時中の処遇に関する名誉回復に取り組んだ。その結果、1988年、議会は収容に対する謝罪と保証金の支払いなどを定めた「市民的自由法案」を可決し、冒頭の『謝罪状』の宣言後の1990年から1人あたり2万ドルの補償金の支払いが始められた。戦後45年になる。


★今から45年前の1969年の夏、私は三井商船のさくら丸でハワイのオアフ島ホノルルに降り立った。まだ学生時代だったので、ハワイの日系人についての専門的な多くの知識はなかったが、イタリア戦線で犠牲になった日系二世の眠る丘パンチボウルがあるのは知っていた。海岸沿いアラモアナ公園から見てハワイ州庁の裏手にあった。

★そのパンチボウルには十字架の墓標が理路整然と縦横斜めに一直線に並んでいた。しばし茫然自失して、その光景を眺めていた。その時に”GO FOR BROKE”の声が聞こえた…ように感じた。たぶん空耳だと周りを見回していた。後日、第442日系部隊が整然とハワイの象徴のヤシの木を背景に並んでいる写真を見て納得していた。

★やはり、あれは空耳ではなかったのだ、と思えたのだった。奇しくも<東北再生スケッチ>三部作の完結篇『鐘撞き人』の(重人のつぶやき)を校正している時に、ダニエル・イノウエ氏の訃報を聞いた。急きょ、先に紹介した追悼文を挿入した。今回50年間、上院議員を務めたダンの青年時代から政界へ決意するまでの逸話になった。

★ある特攻隊員の練習飛行基地は熊本にあった。海軍の人吉飛行場の東方にある神殿原飛行場は1943(昭20)年4月陸軍が地元の人々・生徒や朝鮮人労働者を使役して、東西1300m、南北500mの大きさをなんと3か月で完成させている。ここでは練習機による特攻隊の訓練が行われ、終戦直前には後部に爆弾を搭載したものに改造された。

★1938年5月5日「国家総動員法」を公布。人的・物的資源の統制運用を議会の承認なしに勅令で執行できるようになった。植民地の朝鮮半島から労働力確保のため「同法ヲ朝鮮、台湾、樺太に施行スル件」も勅令によって定めた。1939年7月末には「朝鮮人労務者内地移入ニ関スル件」で戦争遂行のため産業への動員計画を決めた。

★1942年11月末には東条内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定し、国家政策としての中国人強制連行を行った。2年後の44年2月末には「同内地移入ノ促進ニ関スル件」を決定し中国人の強制連行は本格化した。熊本の荒尾市に「日中不戦の森」がある。三井三池炭鉱の職員だった深浦隆二氏が私財を投じて建立された。

★長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の制作。1983年の「中国人殉教者慰霊塔」に「悲しみは国境を越えて、ここに眠る中国人殉教者564柱のみ霊は第二次世界大戦末期三池炭鉱で強制連行に就役せしめられた犠牲者であります。当時『兎狩り作戦』と称したこの事件はその名の如く…非人道的な事件でした」と慰霊と謝罪をされた。(岳 重人)


2014(平成26)年1月15日
「小正月」の日に
posted by 岳重人 at 10:17| Comment(0) | 日記
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