ある特攻隊員の心許せる女性は、絵葉書に「自分の日直には…兵隊さん方が戦地で御苦労なさっておられる話等をきかせつつ、日々の務めにはげんでおります。貴君には空の荒鷲として御活躍される日々御期待しておられることと存じます。お身体に気をつけて。さよなら。昭和19年2月4日」と、野辺の『忘れな草』に記した。
★<東北再生スケッチ>三部作の『舟曳き人』の第一信は次のように始まっていた。「新しい2012年を迎えてお祝いしたいところだが、1月17日は17年前の1995(平成7)年に阪神・淡路大震災があった日だね。あの時は、長田地区などからモクモクと煙が上がり、大きなビルが崩れかけ、高速道路の橋梁が脆くも砕け落ちた光景に」
★慄然とした、とファン・ホッホ(ヴァン・ゴッホのオランダ読み)さんがKenjiへ、新年の挨拶をしている。「マグニチュードM7.3の直下型地震によって6,437名の貴い命が犠牲になった。早朝の5時46分で誰もまだ眠りについていた時だね。3.11は午後2時46分だった。遠くオーヴェールの地から哀悼の念を捧げたい」と祈った。
★不思議なことに9時間後の「46分」という共通の時間が感じられる。先の野辺の『忘れな草』は有名な竹久夢二の絵葉書だ。夢二は今年ちょうど没後80年を迎える。1934(昭和9)年9月1日午前5時40分「ありがとう」の言葉を残して、結核のために逝去(享年49)した。阪神・淡路大震災の午前5時46分とわずかに6分違いだった。
★9月1日が命日という不思議な因縁は、関東大震災の記念日でもあるからだ。91年前の1923(大正12)年9月1日午前11時58分32秒に発震。震源は東京の約80キロ相模湾沖伊豆大島付近の海底でM7.9だった。死者行方不明10万5千人、住宅の全半壊は、25万軒を超えた。浅草のランドマーク「十二階」が途中から崩壊した。
★夢二は渋谷区宇田川町に住んでおり家は無事だったが、友人たちと始めようとしていた「どんたく図案社」は壊滅していた。それでもめげずに有島生馬と東京の町をスケッチして歩き、『都新聞』(現・東京新聞の前身)に「東京災難画信」を連載した。夢二は大災害の中で路頭に迷う人々の生活に寄り添って、様々な人間模様を描く。
★「昨日まで、新時代の伊達男が、所謂文化婦人の左の手を取って、ダンシングホールからカフェーへとヂャック・ピックルの足取りで歩いてゐた。所謂大正文化の模範都市と見えた銀座街が、今日は一望数里の焦土と化した。自分の頭が首の上に着いてゐることさへ、まだはっきりと感じられない」大正12年9月14日(金)の第一信だ。
★翌日の第二信で「琴平様や、増上寺や、観音堂が焼残ったことには、科学的理由もあらうが、人間がこんなに自然の残虐に逢って智識の外の大きな何かの力を信じるのを、誰が笑へるでせう。神や佛にすがってゐる人のあまりに多いのを私は見た。観音堂のおみくじ場に群集して、一片の紙に運命を託さうとしてゐる幾百の人々を見た」(岳 重人)
2014(平成26)年1月17日
19年前の「阪神淡路大震災」の日に
2014年01月28日
「大震災後の竹久夢二」に想う……『国護り人』からのメッセージ(40)
posted by 岳重人 at 12:15| Comment(0)
| 日記
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