2014年01月29日

「竹久夢二の宵待草」に想う……『国護り人』からのメッセージ(41)

不思議なことに9時間後の「46分」という共通の時間が感じられる。先の野辺の『忘れな草』は有名な竹久夢二の絵葉書だ。夢二は今年ちょうど没後80年を迎える。1934(昭和9)年9月1日午前5時40分「ありがとう」の言葉を残して、結核のために逝去(享年49)した。阪神・淡路大震災の午前5時46分とわずかに6分違いだった。

★2年前の2012年7月16日(月)「海の日」のことだ。朝から快晴で暑い一日だった。私は竹久夢二美術館に足を運んでいた。東京大学の赤門の反対裏にある「弥生門」に面した弥生美術館が現在、竹久夢二美術館にお化粧直しされた。夢二は17歳で家出し上京後に東京で新たな生活を始めた。中でも本郷・上野・浅草は若き思い出の地だ。

★夢二装幀のセノオ楽譜の中でも、大衆的に有名なのは『宵待草』。1918(大正7)年の多忠亮・作曲、夢二・作詞の名曲だ。その当時から大ヒットして、関東大震災後にも都市復興の願いを込めて装幀も新たに再販されるほどの人気曲だ。草原に腰を下ろした着物姿の帯には月が、さり気なくデザインされている。左の横顔に哀愁が漂っている。

★1924(大正13)年の改訂版のセノオ楽譜のデザインは、舞台の幕間に恥ずかしそうに両手を前に組み、首を少し右に曲げたワンピース姿の若い女性が描かれている。「待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ…こよいは 月も出ぬさうな」この曲は、夢二が描く美人画に魅了されつつ、世代を超えて広く歌い継がれている。
★「私は不忍の池の端で、おそらく廿と入ってゐない『朝日』の箱を持って、大地に座って煙草を賣ってゐる娘を見た。…この娘を思ふ時、心暗澹とならざるを得ない。さうした娘の幸不幸を何とも一口に言ひ切れないが、賣ることを教へたものが誰であるかが考へられる。恐怖時代の次に来る極端の自己主義よりも、廃頽が恐ろしい」

★夢二は9月17日(月)の第四信『東京災難画信』で娘の行く末を憂えている。翌日の第五信は「…屋根の波の上を四ん這いになって這ったものだ。山王の森が、緞帳芝居の浅黄幕のやうに、ふわりふわりと揺れてゐるんだから、人間が歩けないのに無理はないやね。独逸の表現派の絵がやっと解ったよ」と、ある芸術家を取材していた。

★9月19日(水)の第六信には子ども達の「自警団遊び」の危うさを予見していた。「萬ちゃんを敵にしやうよ」「いやだあ僕、だって竹槍で突くんだらう」萬ちゃんが尻込みしていると、餓鬼大将が出てきて「萬公!敵にならないと打殺すぞ」と嚇かして無理やり敵にして追いかけ廻してゐて本当に萬ちゃんが泣くまで殴りつけていた。

★豆腐屋の萬ちゃんが犠牲になったが、「子供は戦争好きなものだが、當節は、大人までが巡査の眞似や軍人の眞似をして好い氣分になって棒切れを振りまはして、通行人の萬ちゃんを困らしてゐるのを見る。ちょっとここで、極めて月並みの宣伝標語を試みる。『子供達よ。棒切れを持って自警団ごっこするのは、もう止めませう』」(岳 重人)


2014(平成26)年1月18日
「初観音」の日に
posted by 岳重人 at 18:03| Comment(0) | 日記
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