2014年01月29日

「大震災・夢二の予見」に想う……『国護り人』からのメッセージ(42)

豆腐屋の萬ちゃんが犠牲になったが、「子供は戦争好きなものだが、當節は、大人までが巡査の眞似や軍人の眞似をして好い氣分になって棒切れを振りまはして、通行人の萬ちゃんを困らしてゐるのを見る。ちょっとここで、極めて月並みの宣伝標語を試みる。『子供達よ。棒切れを持って自警団ごっこするのは、もう止めませう』」

★9月19日(水)の第六信には子ども達の「自警団遊び」の危うさを予見していた。当時最も庶民の大きな情報源の一つは新聞だった。震災2週間後の14日から10月4日まで計21回で『都新聞』紙上に『東京災難画信』が連載された。それは都新聞、東京日日新聞社と報知新聞社のわずか三社屋だけが無事に焼失しなかったからだ。

★他社は機材等が壊滅的な打撃を受けて報道体制が組める状況ではなかった。最も早く報道を再開したのは東京日日新聞でも9月5日の夕刊からだった。1日遅れで報知新聞が夕刊を発行し、東京朝日新聞が12日、読売新聞が15日、約2週間ほどたっている。確かな情報が最も必要だった9月1日から5日までに空白の時間があった。

★この間隙をついて、様々な悲劇が起きた。それは夢二が子ども達の「自警団遊び」から危惧した大人たちの「自警団」の暴走だった。流言蜚語が飛び交い、その恐怖心と飢え等から各地で朝鮮人の暴動が起きていると煽った。報道体制が維持できた地方新聞社が流言を検証もせず、そのままの報道が東京に還流され風説が広がったのだ。

★当時の政府は何をしていたのか。内務省は9月1日に警保局長名で「人心ノ不安ヲ増大サルル如キ風説ハ努メテ避ケラレタイ」と通牒は出していた。しかしその通牒は生かされなかった。検証すべき報道機関が、速報性の立場で各地の「デマ」を垂れ流し続けたのだ。そのまま信じ込んだ各地の「自警団」が朝鮮人虐殺に走っていた。

★まさに「無理やり敵にして追いかけ廻してゐて本当に萬ちゃんが泣くまで殴りつけていた」。夢二が『東京災難画信』に描いた萬ちゃんのいじめ光景は、空白の5日間に現実に起きていたのだ。その裏では、治安に当たる官憲にとって不都合の報道は、規制を受けて都新聞、報知新聞、東京日日新聞等は次々と発禁処分にされていたのだ。

★内務省は9月3日に特に朝鮮人関係の流言に焦点を当て「朝鮮人ノ妄動ニ関スル風説ハ虚伝…非常ノ災害ニ依リ人心昂奮ノ際、…記事ハ特ニ慎重ニ御考慮ノ上、一切掲載セザル様御配慮」と、各新聞社にかなり強い警告書を送った。大震災後に東京帝国大学に地震研究所を設立した寺田寅彦博士が、この流言蜚語について語っている。

★「最初の…流言の『源』がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、若しもそれを次から次と取次ぐべき媒質が存在しなければ『伝播』は起こらない。随って所謂流言が流言とし得ないで、其場限りに立ち消えになってしまうことも明白である」。大災害の中で防波堤になるべき市民が「媒質」になる恐ろしさを分析した。(岳 重人)


2014(平成26)年1月19日
1931年「軍縮国民同盟」の日に
posted by 岳重人 at 18:10| Comment(0) | 日記
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