今年、没後80年を迎えた夢二の命日が9月1日という不思議な因縁は、関東大震災の記念日でもある。1932(大正12)年9月1日午前11時58分32秒に発震。震源は約80キロ、相模湾沖伊豆大島付近の海底でM7.9.死者行方不明10万5千人、住宅の全半壊は、25万軒を超えた。浅草のランドマーク「十二階」が途中から崩壊した。
★<東北再生スケッチ>三部作『鐘撞き人』のKenjiからファン・ホッホさんへの往復書簡でもアムステルダム駅を模した「東京駅」が話題になっている。「2012年10月1日に図面をもとに復元されました。設計士は辰野金吾氏で、生涯設計したい建築物として国立銀行、横幅335メートルの赤レンガ駅舎の中央停車場、国会議事堂の3つ」
★と同時に、東京駅が開業した時代背景にも触れていた。「1914(大正3)年12月20日、開業当時は南北に大きなドームがあった。これは、第一次大戦における中国青島(ちんたお)陥落を兼ねた祝賀式の象徴でもあったそうです」と列強国に参戦した日本軍の戦果を讃えて、2つの八角ドームを誇る赤レンガ駅舎では盛大に開業祝賀式が挙行された。
★「しかし1945(昭和20)年5月25日夜、南方基地を発進した爆撃機B29約250機は、2時間半にわたって焼夷弾による無差別爆撃、焼夷弾を直接浴びた北口だけでなく、火焔は中央口から南口まで広がり、ごうごうという音を立てて、バラバラと内側に焼け落ちました。あの関東大震災でも持ちこたえたドームは脆くも燃え尽きた」
★ついに「その2つのドームが復活しました。南北ドームの内側の八角隅には、卯(東)・酉(西)・午(南)・子(北)の4つの干支を除いた十二支がデザイン化されています」と、方角を意味する4つの干支が、なぜ東京駅にはいないのかは不明のままだった。なんと国重要文化財でお色直し中の佐賀県武雄市の武雄温泉楼門に配されていた。
★昨年の4月20日付の朝日新聞が報じた。そこで武雄と東京を合せて十二支が初勢揃い。1854年生まれの寅年の「辰野の遊び心」だ。現在の佐賀県唐津市出身の辰野にとって「望郷の念」が反映されている。劇画風に例えると、寅と辰の間の卯(東)は一緒に酉(西)午(南)子(北)と東京駅から逃避し、西南来た故里の楼門に鎮座している。
★こんなユーモアを思い浮かべて楽しむのもいい。残った東北の再生を願う心も忘れてはならない、と自戒をこめるのもいい。一日限定で2月1日に正午から午後8時までだけ一同に会する。ただ、卯と酉の彫刻は取り外すと壊れる恐れがあり、写真パネル展示となる。翌年の1915年に楼門は完成し2005年に国重要文化財に指定された。
★「南北と中央部の高さ20メートルに時計がお目見え。戦災後の洋数字の文字盤を開業当時と同じローマ数字に戻し、文字盤の横のフランジ部分には、昔の鉄道車両の車軸を使用し、復元工事が始まった07年まで使われていた時計から再利用されています」と、Kenjiは鉄道ファンのエールをアムステルダムのファン・ホッホさんに贈った。(岳 重人)
2014(平成26)年2月1日
「十二支、初の勢揃い」の日に
2014年02月27日
「東京駅の十二支」に思う………『国護り人』のメッセージ(54)
posted by 岳重人 at 18:54| Comment(0)
| 日記
この記事へのコメント
コメントを書く