昨年の4月20日付の朝日新聞が報じた。そこで武雄と東京を合せて十二支が初勢揃い。1854年生まれの寅年の「辰野の遊び心」だ。現在の佐賀県唐津市出身の辰野にとって「望郷の念」が反映されている。劇画風に例えると、寅と辰の間の卯(東)は一緒に酉(西)午(南)子(北)と東京駅から逃避し、西南来た故里の楼門に鎮座している。
★東京駅が開業した1914年(大正3)年の5年後には、辰野金吾は他界した。1853年生まれのファン・ホッホさんの翌年54年で享年65になる。1919年は歴史的には、第二次世界大戦の火種が世界各地に蒔かれた年だ。1月5日、ドイツ労働者党(後のナチス)が結成され、3月1日には朝鮮の民族独立運動「3.1運動(万歳事件)」が起きている。
★5月4日は中国で5.4運動が起き、6月28日に第一次大戦後のベルサイユ講和条約が調印された。日本では9月18日、上野広小路に初めて交通信号台が設置。また、日本人に親しまれている@「琵琶湖周航の歌」が誕生した。「われは湖(うみ)の子さすらいの/旅にしあればしみじみと/昇る狭霧やさざなみの/滋賀の都よいざさらば」が響く。
★そこで少し書を捨て旅に出よう。辰野金吾の故里・唐津の東にJR鹿児島本線と長崎本線が交差する「鳥栖駅」がある。かの地を訪ねると「サンメッセ鳥栖」が近い。この
階建ての定住交流センター1階ホール中央に一台のピアノが展示されている。ドイツのフッペル社のグランドピアノで最高級品だ。左横には特攻隊員の絵がある。
★約20年前の1993年に神山征二郎監督『月光の夏』が公開。太平洋戦争末期、出撃前に、目達原基地から国民学校を訪れた音楽学校卒業の特攻隊員2人がいた。講堂にあるピアノで最期にベートーヴェン・ピアノソナタ「月光」を演奏した。そこで20数年後に彼らの消息を追う元教師は、戦争の悲劇を知る……という実話だった。
★舞台になった南西1キロ離れた鳥栖小学校の講堂にあったものが、保存のために移転。「元鳥栖小学校教師の故・上野歌子先生は、ピアノの保存を訴えられました。これが契機になってこのピアノと特攻兵士を主人公にした映画製作の市民運動が高まり、毛利恒之脚本による映画『月光の夏』が平成5年3月に完成」とパネル解説している。
★さらに「以来今日まで全国各地で放映され現在までに160万人以上の観客動員を記録し、また文化庁優秀映画作品賞等受賞・・・この由緒あるグランドピアノを蘇らせ、この鳥栖の地から世界の恒久平和の尊さを奏でつづけていくよう願っております」。ついでに、長崎本線に戻って鳥栖から3つ先の「吉野ヶ里公園駅」に足を延ばそう。
★現在、自衛隊目達原駐屯地があるが、ここはあの当時は鹿児島県の知覧・万世飛行場に向かう特攻隊員の待機基地であった。特攻隊員モデルの2人が所属した航空隊を物語るのは唯一、敷地西方の正門跡だけ。「月光」を弾いた若者達は夢をうち捨てて、白いマフラーを首に南の空へ飛び立った。その結末は、さらに過酷なものだった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月2日
「郵便番号7ケタ」の日に
2014年02月27日
「月光の夏」にピアノを想う………『国護り人』のメッセージ(55)
posted by 岳重人 at 20:20| Comment(0)
| 日記
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