あの時、「1945(昭和20)年5月25日夜、南方基地を発進した爆撃機B29約250機は、2時間半にわたって焼夷弾による無差別爆撃、焼夷弾を直接浴びた北口だけでなく、火焔は中央口から南口まで広がり、ごうごうという音を立てて、バラバラと内側に焼け落ちました。あの関東大震災でも持ちこたえたドームは脆くも燃え尽きた」
★あの時、同年5月25日、沖縄特攻で何が起きていたのだろうか。少し時系列を遡って振り返ってみよう。この時点では練習機を駆り出す作戦が組まれる。それが菊水七号作戦」で、鹿屋基地から5月24日に出撃した海軍の機上作業練習機「白菊」20機が最初だ。見るからにズングリむっくりの機体で、戦果が期待できない代物だ。
★「白菊」は中翼で、教官1名と練習生3名が乗り、30キロの小型爆弾が標準なのが、特攻では九九式艦爆と同じく250キロ榴弾1発を抱いてモタモタ飛んだ。重量オーバーで腰が据わらない登山者を思い浮かべればいい。4月6日、戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄出撃に合わせ、海軍航空部隊による「菊水一号作戦」を開始した。
★この作戦は6月21日の「菊水十号作戦」まで続けられ、その後終戦までに海軍の特攻出撃は1,026機、菊水作戦に呼応した陸軍航空隊は886機を数えた。陸海軍の特攻機が一路沖縄を目指して飛び立っていった。5月25日は出撃した70機のうち24機が突入無線を発した。白菊は偵察員、電信員、航法要員、爆撃要員の訓練用だった。
★あの時、『月光の夏』の白いマフラーを首に南の空へ飛び立った隊員の結末は、さらに過酷なものだった、とはどういうことなのか。ここで「振武隊」は九州方面から出撃した。陸軍特攻隊に命名された隊名で、その隊員が機体不調や敵艦発見できず生還した場合、多くの者が「振武寮」に収容され、周辺からも隔離されて再教育された。
★そこでの指揮官は生還者に対して「貴様らは、卑怯者だ!」呼ばわりして、幾多の暴言、暴力が日常茶飯事だった。指揮官たちは戦後死ぬまで拳銃を肌身から離さなかった。余りの酷い仕打ちに対する報復を恐れてのことだ。それほど悲惨なものだった。菊水九号作戦が終わった翌日の昭和20年6月8日、大本営は本土決戦を決定した。
★1941(昭和16)年1月8日、陸軍大臣・東條英機は『戦陣訓』を発表、戦場における軍人の具体的行動のあり方だ。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という徳目が、「大和魂」という精神主義と捕虜の絶対否定が方向づけられた。『軍人勅諭』の忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五ヶ条の徳目に加わった。
★「殉国至誠」の文字に見入り、出撃を待つ陸軍の特攻「振武隊」隊員の写真がある。左の隊員の左肩ベルトには河野少尉と名前が見える。「死ぬも地獄、生きるも地獄」の劣悪な精神状態に追い込む『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」が、繰り返し若者達に吹き込まれ、沖縄戦や本土決戦では、民衆に対しても強制されていった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月3日
「節分」の日に
2014年02月27日
「戦陣訓」に沖縄特攻を想う………『国護り人』のメッセージ(56)
posted by 岳重人 at 21:02| Comment(0)
| 日記
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