1941(昭和16)年1月8日、陸軍大臣・東條英機は『戦陣訓』を発表、戦場における軍人の具体的行動のあり方だ。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という徳目が、「大和魂」という精神主義と捕虜の絶対否定が方向づけられた。『軍人勅諭』の忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五ヶ条の徳目に加わった。
★昨年の12月26日に安倍ボンは第二次政権1周年に「不戦の決意」を名目に靖国参拝を強行した。本人が危惧した通りに政治問題、外交問題化して、いまだ日韓、日中の首脳会談は実現していない。東京裁判でA級戦犯の東条英機も合祀されている。それが戦犯を崇拝するものだ、との内外の批判も安倍ボンには織り込み済みなのだ。
★確信犯としての靖国参拝である。そんな首相がもう一人いた。それは原発0への「変人」小泉元首相だ。彼は2005年10月17日、同様に参拝直後に中国、韓国などから強い反発が上がった。なぜこんな反響を無視してまで参拝したのだろうか。また、任期中最後の2006年8月15日も内外注目の的で「公約」通りに靖国参拝を行った。
★合祀問題を理解するために、少し寄り道をしよう。まず1959年にB,C級戦犯を合祀し、1978年にはA級戦犯も合祀することになる。これで日本外交にとって靖国参拝という微妙な国際問題を抱え込むことになる。これらの合祀がない時代は1951年の吉田茂内閣全閣僚・衆参両院議長が公式参拝し、昭和天皇、皇后も行幸啓されていた。
★靖国神社の一角にある「遊就館」は物議を醸す展示館だ。彗星艦上爆撃機や特攻隊員の遺書や貴重な「英霊」の遺品もあるが、知覧特攻平和会館と違うのは、展示内容が偏った歴史観で彩られていることだ。歴史は古い。1882年に開館した軍事博物館が1923年の関東大震災で大破した。その後再建されたが、終戦後に閉館させられた。
★現在の「遊就館」は、1986年に新装されたもので、展示説明の中「(不況下の)ルーズベルトに残された道は資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することだった。(日本の)参戦によって米経済は完全に復興した」などの記述があり、当時の米国のシーファー駐日大使やアーミテージ元国務副長官が批判したことがあるほどだ。
★昨日の2月3日の衆議院予算委員会でも、靖国神社参拝を高く評価する議員に、安倍首相は「一国のリーダーがしっかりと手を合せる姿を認めることで、(遺族には)自分の気持ちの中で癒しがあったと推測する。米国に誤解を与えないようしっかりと説明することで日米の絆を揺るぎないものにしていきたい」と、答弁している。
★野党議員の「道徳や愛国心養成を国が主導する必要があるか」に「新しい教育基本法の精神にのっとって教育が行われなければならない」と、規範意識の重要性と日本人のアイデンティティを確立することだと力説した。一瞬だが『戦陣訓』が去来した。(岳 重人)
2014(平成26)年2月4日
「立春」の日に
2014年04月15日
「靖国参拝」に国際政治を想う………『国護り人』のメッセージ(57)
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| 日記
2014年02月27日
「戦陣訓」に沖縄特攻を想う………『国護り人』のメッセージ(56)
あの時、「1945(昭和20)年5月25日夜、南方基地を発進した爆撃機B29約250機は、2時間半にわたって焼夷弾による無差別爆撃、焼夷弾を直接浴びた北口だけでなく、火焔は中央口から南口まで広がり、ごうごうという音を立てて、バラバラと内側に焼け落ちました。あの関東大震災でも持ちこたえたドームは脆くも燃え尽きた」
★あの時、同年5月25日、沖縄特攻で何が起きていたのだろうか。少し時系列を遡って振り返ってみよう。この時点では練習機を駆り出す作戦が組まれる。それが菊水七号作戦」で、鹿屋基地から5月24日に出撃した海軍の機上作業練習機「白菊」20機が最初だ。見るからにズングリむっくりの機体で、戦果が期待できない代物だ。
★「白菊」は中翼で、教官1名と練習生3名が乗り、30キロの小型爆弾が標準なのが、特攻では九九式艦爆と同じく250キロ榴弾1発を抱いてモタモタ飛んだ。重量オーバーで腰が据わらない登山者を思い浮かべればいい。4月6日、戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄出撃に合わせ、海軍航空部隊による「菊水一号作戦」を開始した。
★この作戦は6月21日の「菊水十号作戦」まで続けられ、その後終戦までに海軍の特攻出撃は1,026機、菊水作戦に呼応した陸軍航空隊は886機を数えた。陸海軍の特攻機が一路沖縄を目指して飛び立っていった。5月25日は出撃した70機のうち24機が突入無線を発した。白菊は偵察員、電信員、航法要員、爆撃要員の訓練用だった。
★あの時、『月光の夏』の白いマフラーを首に南の空へ飛び立った隊員の結末は、さらに過酷なものだった、とはどういうことなのか。ここで「振武隊」は九州方面から出撃した。陸軍特攻隊に命名された隊名で、その隊員が機体不調や敵艦発見できず生還した場合、多くの者が「振武寮」に収容され、周辺からも隔離されて再教育された。
★そこでの指揮官は生還者に対して「貴様らは、卑怯者だ!」呼ばわりして、幾多の暴言、暴力が日常茶飯事だった。指揮官たちは戦後死ぬまで拳銃を肌身から離さなかった。余りの酷い仕打ちに対する報復を恐れてのことだ。それほど悲惨なものだった。菊水九号作戦が終わった翌日の昭和20年6月8日、大本営は本土決戦を決定した。
★1941(昭和16)年1月8日、陸軍大臣・東條英機は『戦陣訓』を発表、戦場における軍人の具体的行動のあり方だ。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という徳目が、「大和魂」という精神主義と捕虜の絶対否定が方向づけられた。『軍人勅諭』の忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五ヶ条の徳目に加わった。
★「殉国至誠」の文字に見入り、出撃を待つ陸軍の特攻「振武隊」隊員の写真がある。左の隊員の左肩ベルトには河野少尉と名前が見える。「死ぬも地獄、生きるも地獄」の劣悪な精神状態に追い込む『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」が、繰り返し若者達に吹き込まれ、沖縄戦や本土決戦では、民衆に対しても強制されていった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月3日
「節分」の日に
★あの時、同年5月25日、沖縄特攻で何が起きていたのだろうか。少し時系列を遡って振り返ってみよう。この時点では練習機を駆り出す作戦が組まれる。それが菊水七号作戦」で、鹿屋基地から5月24日に出撃した海軍の機上作業練習機「白菊」20機が最初だ。見るからにズングリむっくりの機体で、戦果が期待できない代物だ。
★「白菊」は中翼で、教官1名と練習生3名が乗り、30キロの小型爆弾が標準なのが、特攻では九九式艦爆と同じく250キロ榴弾1発を抱いてモタモタ飛んだ。重量オーバーで腰が据わらない登山者を思い浮かべればいい。4月6日、戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄出撃に合わせ、海軍航空部隊による「菊水一号作戦」を開始した。
★この作戦は6月21日の「菊水十号作戦」まで続けられ、その後終戦までに海軍の特攻出撃は1,026機、菊水作戦に呼応した陸軍航空隊は886機を数えた。陸海軍の特攻機が一路沖縄を目指して飛び立っていった。5月25日は出撃した70機のうち24機が突入無線を発した。白菊は偵察員、電信員、航法要員、爆撃要員の訓練用だった。
★あの時、『月光の夏』の白いマフラーを首に南の空へ飛び立った隊員の結末は、さらに過酷なものだった、とはどういうことなのか。ここで「振武隊」は九州方面から出撃した。陸軍特攻隊に命名された隊名で、その隊員が機体不調や敵艦発見できず生還した場合、多くの者が「振武寮」に収容され、周辺からも隔離されて再教育された。
★そこでの指揮官は生還者に対して「貴様らは、卑怯者だ!」呼ばわりして、幾多の暴言、暴力が日常茶飯事だった。指揮官たちは戦後死ぬまで拳銃を肌身から離さなかった。余りの酷い仕打ちに対する報復を恐れてのことだ。それほど悲惨なものだった。菊水九号作戦が終わった翌日の昭和20年6月8日、大本営は本土決戦を決定した。
★1941(昭和16)年1月8日、陸軍大臣・東條英機は『戦陣訓』を発表、戦場における軍人の具体的行動のあり方だ。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という徳目が、「大和魂」という精神主義と捕虜の絶対否定が方向づけられた。『軍人勅諭』の忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五ヶ条の徳目に加わった。
★「殉国至誠」の文字に見入り、出撃を待つ陸軍の特攻「振武隊」隊員の写真がある。左の隊員の左肩ベルトには河野少尉と名前が見える。「死ぬも地獄、生きるも地獄」の劣悪な精神状態に追い込む『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」が、繰り返し若者達に吹き込まれ、沖縄戦や本土決戦では、民衆に対しても強制されていった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月3日
「節分」の日に
posted by 岳重人 at 21:02| Comment(0)
| 日記
「月光の夏」にピアノを想う………『国護り人』のメッセージ(55)
昨年の4月20日付の朝日新聞が報じた。そこで武雄と東京を合せて十二支が初勢揃い。1854年生まれの寅年の「辰野の遊び心」だ。現在の佐賀県唐津市出身の辰野にとって「望郷の念」が反映されている。劇画風に例えると、寅と辰の間の卯(東)は一緒に酉(西)午(南)子(北)と東京駅から逃避し、西南来た故里の楼門に鎮座している。
★東京駅が開業した1914年(大正3)年の5年後には、辰野金吾は他界した。1853年生まれのファン・ホッホさんの翌年54年で享年65になる。1919年は歴史的には、第二次世界大戦の火種が世界各地に蒔かれた年だ。1月5日、ドイツ労働者党(後のナチス)が結成され、3月1日には朝鮮の民族独立運動「3.1運動(万歳事件)」が起きている。
★5月4日は中国で5.4運動が起き、6月28日に第一次大戦後のベルサイユ講和条約が調印された。日本では9月18日、上野広小路に初めて交通信号台が設置。また、日本人に親しまれている@「琵琶湖周航の歌」が誕生した。「われは湖(うみ)の子さすらいの/旅にしあればしみじみと/昇る狭霧やさざなみの/滋賀の都よいざさらば」が響く。
★そこで少し書を捨て旅に出よう。辰野金吾の故里・唐津の東にJR鹿児島本線と長崎本線が交差する「鳥栖駅」がある。かの地を訪ねると「サンメッセ鳥栖」が近い。この
階建ての定住交流センター1階ホール中央に一台のピアノが展示されている。ドイツのフッペル社のグランドピアノで最高級品だ。左横には特攻隊員の絵がある。
★約20年前の1993年に神山征二郎監督『月光の夏』が公開。太平洋戦争末期、出撃前に、目達原基地から国民学校を訪れた音楽学校卒業の特攻隊員2人がいた。講堂にあるピアノで最期にベートーヴェン・ピアノソナタ「月光」を演奏した。そこで20数年後に彼らの消息を追う元教師は、戦争の悲劇を知る……という実話だった。
★舞台になった南西1キロ離れた鳥栖小学校の講堂にあったものが、保存のために移転。「元鳥栖小学校教師の故・上野歌子先生は、ピアノの保存を訴えられました。これが契機になってこのピアノと特攻兵士を主人公にした映画製作の市民運動が高まり、毛利恒之脚本による映画『月光の夏』が平成5年3月に完成」とパネル解説している。
★さらに「以来今日まで全国各地で放映され現在までに160万人以上の観客動員を記録し、また文化庁優秀映画作品賞等受賞・・・この由緒あるグランドピアノを蘇らせ、この鳥栖の地から世界の恒久平和の尊さを奏でつづけていくよう願っております」。ついでに、長崎本線に戻って鳥栖から3つ先の「吉野ヶ里公園駅」に足を延ばそう。
★現在、自衛隊目達原駐屯地があるが、ここはあの当時は鹿児島県の知覧・万世飛行場に向かう特攻隊員の待機基地であった。特攻隊員モデルの2人が所属した航空隊を物語るのは唯一、敷地西方の正門跡だけ。「月光」を弾いた若者達は夢をうち捨てて、白いマフラーを首に南の空へ飛び立った。その結末は、さらに過酷なものだった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月2日
「郵便番号7ケタ」の日に
★東京駅が開業した1914年(大正3)年の5年後には、辰野金吾は他界した。1853年生まれのファン・ホッホさんの翌年54年で享年65になる。1919年は歴史的には、第二次世界大戦の火種が世界各地に蒔かれた年だ。1月5日、ドイツ労働者党(後のナチス)が結成され、3月1日には朝鮮の民族独立運動「3.1運動(万歳事件)」が起きている。
★5月4日は中国で5.4運動が起き、6月28日に第一次大戦後のベルサイユ講和条約が調印された。日本では9月18日、上野広小路に初めて交通信号台が設置。また、日本人に親しまれている@「琵琶湖周航の歌」が誕生した。「われは湖(うみ)の子さすらいの/旅にしあればしみじみと/昇る狭霧やさざなみの/滋賀の都よいざさらば」が響く。
★そこで少し書を捨て旅に出よう。辰野金吾の故里・唐津の東にJR鹿児島本線と長崎本線が交差する「鳥栖駅」がある。かの地を訪ねると「サンメッセ鳥栖」が近い。この
階建ての定住交流センター1階ホール中央に一台のピアノが展示されている。ドイツのフッペル社のグランドピアノで最高級品だ。左横には特攻隊員の絵がある。
★約20年前の1993年に神山征二郎監督『月光の夏』が公開。太平洋戦争末期、出撃前に、目達原基地から国民学校を訪れた音楽学校卒業の特攻隊員2人がいた。講堂にあるピアノで最期にベートーヴェン・ピアノソナタ「月光」を演奏した。そこで20数年後に彼らの消息を追う元教師は、戦争の悲劇を知る……という実話だった。
★舞台になった南西1キロ離れた鳥栖小学校の講堂にあったものが、保存のために移転。「元鳥栖小学校教師の故・上野歌子先生は、ピアノの保存を訴えられました。これが契機になってこのピアノと特攻兵士を主人公にした映画製作の市民運動が高まり、毛利恒之脚本による映画『月光の夏』が平成5年3月に完成」とパネル解説している。
★さらに「以来今日まで全国各地で放映され現在までに160万人以上の観客動員を記録し、また文化庁優秀映画作品賞等受賞・・・この由緒あるグランドピアノを蘇らせ、この鳥栖の地から世界の恒久平和の尊さを奏でつづけていくよう願っております」。ついでに、長崎本線に戻って鳥栖から3つ先の「吉野ヶ里公園駅」に足を延ばそう。
★現在、自衛隊目達原駐屯地があるが、ここはあの当時は鹿児島県の知覧・万世飛行場に向かう特攻隊員の待機基地であった。特攻隊員モデルの2人が所属した航空隊を物語るのは唯一、敷地西方の正門跡だけ。「月光」を弾いた若者達は夢をうち捨てて、白いマフラーを首に南の空へ飛び立った。その結末は、さらに過酷なものだった。(岳 重人)
2014(平成26)年2月2日
「郵便番号7ケタ」の日に
posted by 岳重人 at 20:20| Comment(0)
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