2014年04月16日

「サイパン島慰霊」に沖縄を想う………『国護り人』のメッセージ(59)

陛下は「戦後の沖縄の人々の歩んだ道は、厳しいものがあったと察せられます」と150人の遺族を前に一字一句かみしめるように6分間も感情を込めてお話しされた。2005年6月27日には戦後60年の慰霊で米自治領北マリアナ諸島のサイパン島を2日間訪問。「常に国民と苦楽をともに」の旅は今も続けておられる。千思万考を学ぶ。

★天皇陛下と皇后様は慰霊目的の初外国訪問になるサイパン島で住民が玉砕された断崖に向かって、お二人は深々と頭を下げられ哀悼の祈りを捧げられた。それは度々慰霊に訪問されている沖縄に向き合った祈りにも思えた。なぜなら、砂糖キビ栽培の盛んなサイパン島は沖縄出身者を主として約2万人の一般人が住んでいたからだ。

★15年戦争の時代は、天皇のために死ぬことが日本軍人として最高の栄誉であり、捕虜になるより死を選ぶのが軍規律だ、と『戦陣訓』で叩き込まれた。アッツ島をはじめ孤島の守備隊が敵の背後に取り残され、補給の絶えた戦場で餓死する背景には「尽忠殉国・万死報国」の天皇中心主義があった。天皇陛下に艱難の慰霊の旅だ。

★1943年9月、大本営発表は、これまでの攻撃中心の方針を改め「絶対国防圏」を定めて、守りを中心の方針に切り替えた。1945年春の完成予定でこれらの島々に要塞を構築しようと関東31軍を作り、約10万人の軍をサイパン、グァム、トラック、パラオ、硫黄島の五島の守りにつかせた。しかし米軍は予想より早く攻撃を開始した。

★サイパン島は中部太平洋方面防衛の中心基地だったが、すでに基地航空兵力は壊滅、4万3千余りの守備兵は、圧倒的な砲爆撃のもとで地下壕と洞窟に立てこもり、孤立して戦闘を続けた。20日間の激戦後の7月6日、防衛指揮官の南雲忠一中将らは自決し、最後の総突撃の「餞け(はなむけ)」とした。翌7日、残存兵力3,000人は全滅した。

★サイパン陥落直前に、大本営の『機密戦争日誌』には「最早希望ある戦争指導は遂行し得ず。残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄に俟つあるのみ」とある。一連の玉砕の終着点は「一億玉砕・一億特攻」の本土決戦思想だった。6月15日に上陸した米軍は日本軍の自殺的な玉砕突撃を「バンザイ突撃」と戦闘終結の基準にした。

★この後に、さらに悲惨な光景が米軍の目前に展開された。非戦闘員のサイパン島住民も、洞窟の中で自殺し、子ども達は親の手で絞殺された。島の北部マッピ山頂に追い詰められた婦人達は、50mの断崖絶壁から、多数が海中に身投げ自殺をした。米軍はこの場所を「バンザイ・クリフ」と名付けた。天皇陛下が祈られる方角だった。

★米軍は、7月21日にグァム島、7月24日はテニアン島に上陸。いずれの部隊も8月初めの最後の「バンザイ突撃」によって玉砕した。1944年6月27日頃は、米機動隊は連日猛烈な艦砲射撃と大規模な空爆によって、爆弾・焼夷弾を雨あられと降り注いでいた。兵士も住民にも砂糖キビ畑すら生きた心地がしない地獄だったのだ。(岳 重人)


2014(平成26)年2月6日
「旧七草」の日に
posted by 岳重人 at 17:18| Comment(0) | 日記

「新・教育基本法」に愛国心を想う………『国護り人』のメッセージ(58)

野党議員の「道徳や愛国心養成を国が主導する必要があるか」に「新しい教育基本法の精神にのっとって教育が行われなければならない」と、規範意識の重要性と日本人のアイデンティティを確立することだと力説した。一瞬だが『戦陣訓』が去来した。

★安倍ボンが答弁した新・教育基本法の「教育の目的」には「郷土愛、愛国心を養う」とはなっていない。「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」が、「教育の目的」である。第二条が「教育の目標」になる。

★ここに、安倍ボンの一知半解な理解力と性急さが露呈している。いい加減に解釈

して条文すら誤用しているのだ。5項目の最後は「五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」となる。首相答弁の引用は、正確に期すべきだ。

★どこに「愛国心を養う」とあるのだろうか。あくまでも「我が国と郷土を愛する態度を養うこと」なのだ。ここで、1月27日「国旗制定記念日」の一節を再録しよう。(1910年の第一次改訂の国定修身教科書では「忠君報国」が一体化し、「滅私奉公」「尽忠報国」等が説かれて、決戦体制下では「皇国民錬成」が目標になっていく)。

★安倍ボンが目指す「教育の目標」は戦前の「愛国心を、取り戻す。」ことにある。合祀問題でも1978年のA級戦犯も合祀された後には、昭和天皇、皇后も行幸啓されておられない。それは国際社会と日本の戦争責任を深く心の奥底に秘めておられ、別な形で多くの戦争犠牲者を追悼されておられるのだ。その足跡を辿って学びたい。天皇陛下は皇太子時代から戦没者慰霊に心砕かれてきた。その中でも沖縄への追悼の念は厚く計9回も沖縄県を訪問されている。1981年8月7日、「日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つある。(終戦記念日と)広島の原爆、長崎の原爆、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日」が皇太子時代の記者会見だった。

★最初の1975年の「ひめゆりの塔」で火炎瓶を投げつけられる事件が起きた。とても心痛める体験をされたにもかかわらず、戦没者追悼の旅は続けられた。1993年4月23日、沖縄平和祈念堂では「住民を巻き込む地上戦が行われ、20万人の人々が犠牲になったことに対し、言葉に尽くせぬものを感じます」と、天皇陛下のお言葉だ。

★さらに「戦後の沖縄の人々の歩んだ道は、厳しいものがあったと察せられます」と150人の遺族を前に一字一句かみしめるように6分間も感情を込めてお話しされた。2005年6月27日には戦後60年の慰霊で米自治領北マリアナ諸島のサイパン島を2日間訪問。「常に国民と苦楽をともに」の旅は今も続けておられる。千思万考を学ぶ。(岳 重人)


2014(平成26)年2月5日

「さっぽろ雪まつり」の日に
posted by 岳重人 at 12:41| Comment(0) | 日記

2014年04月15日

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posted by 岳重人 at 17:02| Comment(0) | 日記